星を匿す雲

主にTVゲーム、漫画、小説、史跡巡りの感想を書いているブログです。基本的に【ネタバレあり】ですのでご注意ください。

【感想】一緒にいてもスマホ:私はスマホが嫌いだった

皆様こんにちは。赤城です。

シェリー・タークル著、日暮雅通訳の『一緒にいてもスマホ SNSとFTF』を読んで色々と思うところがあったのでまとめました。




『一緒にいてもスマホ』を読んだきっかけ

本書はカル・ニューポート著の『デジタル・ミニマリスト

にて、「会話」の重要性を論じた文献としてたびたび登場する。


私は『デジタル・ミニマリスト』を読んだことによりテクノロジー依存の弊害と原因に興味を持ち、題名から見ていかにもその話題に詳しそうである本書を手に取った。

著者のシェリー・タークルはハーバード大学卒の臨床心理学者で、マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授だ。

興味はあるけど本まで読むのはちょっと、お前の感想もちょっと、という方は、彼女のTEDスピーチだけでも観てみていただきたい。本書の彼女の主張が端的にまとめられた19分ほどのスピーチになっている。


『デジタル・ミニマリスト』にご興味のある方はこの記事にレビュー・感想を書いている。よろしければお読みください。




『一緒にいてもスマホ』概要

本書は、自分一人の孤独な状態の効用、および、フェイス・トゥ・フェイス(Face To Face、略してFTF)のコミュニケーション=会話の効用が、SNSなどのデジタル・テクノロジーの過度な利用によって失われつつあることを警告する。


孤独で、何もすることがなく退屈したとき、私たちは自分の内面に思いを馳せ、空想や内省を行う。これにより、感情豊かな落ち着いた人格が形成され、自己に対する理解が深まり、新しいアイディアをひらめきやすくもなる。

ところが、デジタル・テクノロジーがすぐそばに、自由に利用できる状態で存在すると、私たちは退屈をテクノロジーで紛らせようとする。そこでは良い意味での孤独が生まれず、空想や内省の生まれる余地もない。結果として、人格形成や自己理解、ひらめきが阻害される。

また、デジタル・テクノロジーでは、写真や発言内容を投稿前に編集できる。したがって、例え自分自身について真摯に告白しようとしても、そこには必ず他人に見せるための演技が入り込んでしまうため、投稿と同時に厳密な意味での内省を行うことは不可能である。


フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを行うことで、私たちは他者に対する健全な愛着や思いやりを持ち、集団に対する適切な帰属意識を育てることができる。

ところが、デジタル・テクノロジーがすぐそばに、自由に利用できる状態で存在すると、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションをしている場面でもテクノロジーを利用してマルチタスク状態になる。結果として、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションとその効用が阻害される。

家庭、学校、恋愛関係、会社など、あらゆる場面において、デジタル・テクノロジーによる悪影響が深刻になっている。


さらに、デジタル・テクノロジーを利用する代償として私たちが差し出す個人情報は、テクノロジーの提供者が悪用はしないと明言していても、その危険を常に孕んでいる。


さらにまた、昨今では、デジタル・テクノロジーの理想形のひとつであるロボットに、人間が対応する余裕のない場面でフェイス・トゥ・フェイスの会話を担わせ、人間のケアワーカーなどと同じ効果を発揮することを期待する向きがあるが、ロボットが複雑なコンテクストやニュアンスを理解できない以上、その期待は見当違いであり、かえって問題を招く恐れがある。







お詫びとこの先の文章の性質について

私はこういった学術書を読むための訓練を全く積んでいないため、本書について建設的な考察を述べることはできない。

ゆえに、この後の項では、ことごとく、本書の内容から想起した自分の経験(かなり主観的で感情的で偏っている上に取り立てて特異でもない)をとりとめもなく語っているだけである。ご容赦いただきたい。




私はスマホが嫌いだった

201X年の春、私は大学4年生だった。

所属していたサークルに3学年下の新入生が加入した。卒業研究が始まった。そして、水面下では実質的に開始されていた就職活動が、正式な開始の号令をかけられた。



スマホに関する最初期の印象

その頃まで、スマートフォンなる新しい「携帯電話」は、学友たちの手の中にあるのを見かけこそすれ、私にとってはさして注目に値する存在ではなかった。さらに言えば、私はその新しい携帯電話をひどく嫌悪していた。

嫌っていた理由はもう定かではない。ただ、他の人から見れば些末なことかもしれないが、私にとって印象的だった出来事が2つある。


入学前からLINEで仲良くなっていた

1つ目は、サークルの後輩が「入学前からみんな"LINE"の『グループ』で仲良くなっていたんですよ」と教えてくれたことだ。

何気なく聞き流すふりをしながら、背筋に寒気が走ったのを今でもよく覚えている。

私はその頃まだスマホを持っていなかったので、LINEも使っていなかった。だが、LINEがどのようなアプリケーションであるかは聞き知っていた。「友達」にはいつでもテキストメッセージを送ることができ、そのメッセージは友達のスマホに直ちに届けられ、閲覧され、返信される。個人対個人だけでなく、ユーザを何人もまとめたグループというチャットルームのようなものを作ることもできる。

入学前からLINEによって交友関係ができあがっているのは、入学したての頃に心細い思いをしなくて済むという意味では有意義だろう。だが、スマホを持っていない者は既にできあがっている交友関係の中で肩身の狭い思いをすることになる。またスマホを持っていたとしても、テキストメッセージのやり取りを煩わしいと思いあまり会話に参加しない、もしくは会話に失敗してしまった者は、「付き合いが悪い奴」「おかしな奴」と見なされ、スマホを持っていない者よりもさらに窮屈な立場に置かれるのではないだろうか。

もちろん、入学前のLINEのグループの交友関係がその後も彼らの関係性を支配していたとは思えない。いくら同じ大学に入学する者だといっても、彼らの興味や価値観はバラバラだ。そのままフェードアウトしたグループが多いのではないかと思う。私の学年でも「ミクシィ」のコミュニティで入学前から連絡を取り合っていた人たちがわずかにいたらしいが、やはり入学後は全く盛り上がらずにフェードアウトしたと聞いている。

私の背筋に寒気が走ったのは、その「前」を想像したからだ。中学校、高校のクラス。興味や価値観のバラバラな者が適当に寄せ集められただけにもかかわらず、その枠組みの中で1年間、友達を作ってつつがなく暮らさなければならないという地獄のような空間。私が現役の中学生、高校生だった頃でさえそんな印象だったのに、そこにもし、LINEのグループが存在したら。コミュニケーション下手な私と似たような性質の子供は、LINEを持っていようが持っていまいが、私以上の地獄を味わうだろう。

私が大学で関わっていた後輩たちは、ギリギリまだ、中学校や高校の教室の中にスマホが入り込んでいなかった世代かもしれない。大学の入学前にスマホを買ってもらい、有頂天で評判のテクノロジー、LINEに登録し、無邪気に入学前のグループで戯れていただけかもしれない。だが、私が顔も知らないもっと年下の後輩たちはどうなってしまうのだろう。そう考えて、私は暗澹たる気持ちになったのだった。


会議中にスマホを見ている

私にとって印象的だったスマホに関する出来事の2つ目は、サークルに加入した新入生の一人が、サークルの活動方針を決める会議中にスマホを見ていたことだ。

「活動方針を決める会議に新入生を参加させるの?」とか「4年生にもなってまだサークルに行ってたの?」というツッコミが入りそうだが、そういうサークルなのだと思ってほしい。

とにかく、全員が真面目に耳を傾けなければいけないはずの会議の場で、先輩を含む全員の視線があるにもかかわらず堂々とスマホをタップしている新入生の姿に、私は驚きと呆れと怒りを禁じえなかった。思わず、「会議中はスマホを閉じて話を聞こうよ」と話しかけてしまった――そのとき、その新入生を委縮させないような、なんでもない風を装った笑顔で言えたかどうか、私には自信がない。私がそんな言葉をかけたせいかは分からないが、しばらくしてその新入生はサークルに来なくなったようだ。

後輩のなんでもないような小さな言動に文句を垂れれば「クソ面倒なお局」というレッテルを貼られるであろうことは理解していたし、恐れられ、避けられる先輩になりたいとも思っていなかった。

それなのになぜ、私はあのときあの一言を口に出さずにはいられなかったのだろうか。

後付けの理屈に過ぎないかもしれないが、今ならあの一言の理由が分かる。私は怖かったのだ。本来もっと大事にしなければならないはずの会話への注意を、スマホによって奪われることを。



スマホは就職活動だけに使うはずだった

前述の通り、201X年の春、私の学年の就職活動が始まった。

それ以前には、私の周りはまだガラケー使いの方が多かったように思う。しかし、いざ就職活動が始まると、途端にスマホの所持率が高くなった。

「就職活動にはスマホが便利」という話――移動中でも企業説明会にエントリーできるだの、企業情報を閲覧できるだのといった利点について就活情報ウェブサイトや既にスマホを所持している友人たちから力説されると、私も購入を検討せざるをえなかった。だって、「みんながスマホを使って就職活動している」のだ。スマホを使わなかったら、使っている人たちよりも不利に違いない。

そんな理由から、私はスマホを購入した。あくまで就職活動に使うためだ。就職活動が終わったら、さっさとガラケーに戻そうと思っていた。


スマホなしの生活には戻れない

ところが、就職活動が終わってからも、私はスマホを使い続けざるをえなかった。

一時期は私も当初の思惑通りガラケーに戻したのだ。しかし、2つの要因により、私は再びスマホを使うことを余儀なくされた。

1つ目の要因は、友人たちが就職活動が終わってからもスマホを使い続けたことだ。そのために、彼らとの連絡手段がメールからLINEに変わってしまい、私は彼らと連絡を取り合うのに苦労を強いられることになった。LINEにもPC版はあるが、当然PCなど持ち歩いてはいないため、確認するのが遅くなり、会話に置いていかれてしまう。そうなったところで、友人たちは私を仲間外れなどにはしないと信じていたが、それでもLINEで頻繁に連絡の取れる人たちよりも疎遠になってしまうのではないかと私は恐れた。

2つ目の要因は、私が極度の方向音痴で、しかも、遅刻魔であることだ。その場所に行くのが初めて~3度目くらいまでは、とにかく迷う。地図を印刷して持参し、通行人に道順を教わっても、だ。その上、寝坊したり電車を乗り間違えたりして集合時刻ギリギリだったり既に30分ほど経過していたりするので、非常に心臓に悪い。ところがスマホでGoogleマップを開き、GPSをオンにしさえすれば、(稀に精度が悪くて当てにならないこともあるが)目的地に迷わず到着することができる。

私は寿命の縮まるような思いをすることがほぼなかったスマホ時代を懐かしみ、友人と疎遠になりたくないという思いも相まって、再びスマホを購入した。ただし、通話とキャリアメールの機能はガラケーに残し、インターネット通信のみの格安スマホを選んだ。現在でも、この組み合わせで使い続けている。


私なんて、どうでもいいの?

こうして、私はスマホを、自分の生活に不可欠なインフラとして捉えるようになった。やがて、友人とやり取りするときやGoogleマップを使うときなどの、本当に必要なとき以外にも、なぜかスマホの画面を眺める時間が多くなった。

私以外の人たちにも同じことが起こっているようだった。その証拠に、私は先述したような「会議中にスマホをいじっている新入生」のような光景、『一緒にいてもスマホ』で人物と場所をとっかえひっかえして繰り返し描写される光景に、頻繁に出くわすようになった。

友人と待ち合わせをしたとき、街を歩いているとき、会食しているとき。スマホは彼らのスラックスや胸のポケットに入っていて、何か珍しいものがあったとき、少し会話が途切れたとき、彼らは断りもなくスマホを取り出す。

「スマホなんか出さないで、目の前にいる私と喋って!」
「せめて一言断りを入れてよ。そんなに私のことがどうでもいいの?」
「私と一緒にいるのが退屈なら、いっそのこと『もうお開きにしよう』って言って」

そう言いたいのを私はいつもこらえている。「クソ面倒なお局」だと思われて嫌われたくないから。そして、私自身もたまに同じことをしてしまうから。

私は確かにスマホが私たちに不可欠なインフラだと思っており、必要以上に使ってしまう。だからと言って、私はスマホが好きなわけではなかった。むしろ、まるで自覚のないまま、私はスマホとそれが作り出す注意散漫の文化をずっと憎んでいた。

しかし、スマホの市井へのあまりの浸透ぶりに圧倒され、私は憎悪の矛先を「スマホ程度の存在に友人の注意を奪われてしまう、面白みのない自分」に変えていた。スマホなんか見る暇もないくらい息つく間もなく、愉快な・ためになることを言ったりやったりする人間でない限り、今後は大人しくスマホに屈するべきなのかもしれない。つまり、「スマホなんか使わないで私と喋って」と思うこと自体、おこがましいことなのだ。私はそれだけの価値しかない人間なのだ。

今でも、私はスマホに対する憎悪を自分自身に向けている。それが今のスマホその他のITの持て囃されているご時世では妥当だと思っている。




ゲーム禁止条例を作った人たち、授乳中の母親の視線に文句を言った人たち

例えば、香川県でゲーム禁止条例が施行されようとしたとき、授乳中の母親が赤ちゃんではなくスマホを見ていることに苦言を呈する人が現れたとき、多くの人が異を唱えた。私もツイッターなどでブツブツ文句を言っていた。

ゲームをやりすぎないことや授乳中に赤ん坊に視線を向けることは、人間が人間らしくあり続けるために重要なことだと理解はしていた。だが全ての場面において杓子定規に適用を強制されるのは、窮屈であり、かえって人間らしさを失ってしまうように思えた。ゆえに、ゲーム禁止条例にも、授乳中の母親は常に赤ん坊を見ろ理論にも、猛烈な反発を覚えたものだった。


しかし、本書を読むと、ゲーム禁止条例を支持した人たちや、授乳中の母親の視線に文句を言った人たちの意図が理解できるような気がする。

無論、自分たちの権益の死守や憂さ晴らしのためという人もいたかもしれない、もしかしたらそういう人の方が多かったかもしれない。さらには、いくら正当な意図があろうとやり方や言い方を考えるべきだろう、とは思ったが、ともあれ、彼らの意図は理解できた。

つまりは本書でいうフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションが減っていることに危機感を抱いたのだろう。それで、その分かりやすい発露であるゲームや授乳中のスマホを敵視するに至ったのだ。

確かに、少しくらいは、長めにゲームで遊んだり、授乳中にスマホを見たりするのに問題はない。だがそれが常日頃となることを彼らは懸念したか、常日頃になっていることを目の当たりにしたのではないか。ちょうど今の私のように。

すると、「ゲームもスマホもちょっとくらいならやっても大丈夫!」とお墨付きを与えることにも不安が付きまとい、つい厳しく規制したり、きつい言葉をかけたりしてしまうのだろう。節制を知らない人間などいくらでもいるし、本書や『デジタル・ミニマリスト』で指摘されたように、スマホは、節制を知っている人間をも惹きつける強い魔力を秘めているのだから。




アナログよりもデジタルが好きなはずの私のアナログへの渇望

『デジタル・ミニマリスト』の感想記事デジタル・ミニマリズムの実践記事で散々豪語しているように、私はアナログ(オフライン)よりもデジタル(オンライン)が好きだ。

それは、現実世界にあまり興味がなくて、でも自分の考えていることや作品は自分の好きなタイミングでどこかに発表したいので、そういう場合はデジタルの方が手軽だ、と思っているからだ。また、それゆえに会話よりも文章(テキストメッセージ)を好んでいる(参考記事:私が絵描きではなく字書きをやっている3つの理由 - 星を匿す雲

私の上記の状況からは、デジタル・テクノロジーでは真の内省ができない罠やプライバシーがない罠にまんまと引っかかっていることが清々しいほどはっきりと見て取れる。これらについては便利さとのトレードオフということで諦めておく。本書を読んで、自分の内面の全てをネットの海に放流してしまうとかえって思想や作品に支障が出ることが分かったので、もう少し考えて運用しようとは思っている。


それよりも、本題は、アナログよりもデジタルが好きで、新型コロナウイルス流行に伴い自分の会社が在宅勤務を渋々認めた際に「やったぜ! 出勤当番さえなければずっと自宅にこもって家族以外の誰とも会わなくても平気だぜ!!」と大声でのたまっていた私が、ここに来て、オフラインで人と会うことを猛烈に欲するようになってしまったらしいことである。


前兆は、以前からお世話になっているカウンセラーさんとの対面カウンセリングが、新型コロナのせいでテレビ電話になったときに現れた。当初は「家からカウンセリングルームまでめっちゃ遠いし、テレビ電話になってくれて万々歳、ずっとこのままでいい」とさえ思っていた。しかしいざカウンセリングが始まると、「何これ……実際に会って話さないと全然話した気にならない……」とモヤモヤした気分になった。その後、対面カウンセリングが復活したときは、カウンセラーさんとの再会を喜び、ひとしきり「対面とテレビ電話とでは全然違いますね」と偉そうに語ったものだ。

本書では、身振り手振りや表情、声色がある程度窺えるコミュニケーションであれば、厳密にフェイス・トゥ・フェイスでなくても「会話」と定義している。しかし、やはりテレビ電話と実際に会って話すのとでは会話の効果には天と地ほどの差があった。そして、デジタル大好き効率化大好きなはずの私が、よりアナログな対面式のカウンセリングに戻ったことを喜んだのである。


同じく新型コロナのせいで、友人とも、LINEのテキストメッセージか、運が良ければテレビ電話で話すくらいで、実に味気ない。テキストメッセージやテレビ電話の方が便利で相手の時間を奪わないため、コミュ障の私にとっても私の下手くそな話を聞かされる友人にとってもありがたいが、一方でそれでも直接会って話したい衝動が高まっている。少なくとも、私の方は。


さらに、この頃は、なんと在宅勤務の時間が憂鬱になってきた。「同僚のみんな、雑談でいいから電話かけてきてくれないかなあ」などと思い始めてしまったのである。以前の私では到底考えられなかったことだ。

私は、在宅勤務中は同僚たちとはチャットツールで「接続」する。事務仕事なのでそれだけで事足りるのだ。しかしどうも、相手のメッセージが冷たく感じられてムッとしたり、逆にこちらのメッセージが失礼な雰囲気になっていやしないかと神経質になってしまう。それで、相手に敵意がないことを確かめ、自分に敵意がないことを伝えるため、つい声を聞きたい・聞かせたい衝動に駆られるのだ。

また、同居している家族がしばしば所用を済ませるために家を離れるので、私以外の誰の気配もない家で、遥か彼方にいる同僚(ときどき無機質なメッセージを送ってくる)に送る資料を黙々と作る、みたいな事態がしばしば生じ、ちょっと背筋がひんやりする。これは、誰もいない家で小説や絵を描いているのとは全く別の感覚だ。何せ、私には共同作業をしている相手がいるのに、その姿形がどこにも見えないのだから。

加えて、出勤当番の日になったとて、三密を避けるために社員はそれぞれ別のスペースで作業をしており、会話の機会は少ない。在宅勤務時にメッセージで行ったやり取りの続きを対面でやる、なんてことになると、メッセージのときと対面のときとの互いのテンションや言葉遣いの差異になんとなくぎこちない雰囲気が漂う。

今の会社に転職した当初、上司から「うちはみんな会話するのが好きだから、赤城さんも積極的に話してね! え? メールの方が好き? 困るなあ、うちの社風に慣れてってくれないと!」みたいなことを言われて内心ブチギれていたが、今となってはその心意気がありがたく感じる。いや、真剣に作業しているときに話しかけられて集中が途切れることがしばしばだったし、その他にも色々な弊害があったので、元通りになってほしいとは思わないけれども。


なぜこのような劇的とも思える心境の変化が生じたのだろう。それは、以前は週に5日は会社の同僚と会い、さらに終業後等に友人と会合も開いていたために十分に満たされていたフェイス・トゥ・フェイスの会話への欲求が、在宅勤務メインに切り替わり友人との直接の会合もなくなってしまったために満たされなくなってしまったためではないか。

私は他の人よりは他者と会話することへの欲求が低いと思うが(会話することへの欲求が高ければこんな長文のブログなど書かない)、それでもほぼゼロになってしまうのは耐えがたいことなのだ。


なお、本書では言及されておらず、どちらかというとデジタル・テクノロジー賛美派の書籍に記載されている気がするが、上記のような、真剣に集中しているときに話しかけられるみたいな、濃密すぎる他者との関係性が孤独を阻害する問題はデジタル・テクノロジーが普及するより前から深刻だったと思う。だから、コミュニケーション下手な私のような人間がやむをえず他者と親密になることを避け、テクノロジーに逃走するようになったのではないかとも。




将来、「一緒にいてもスマホ」が問題視されなくなる可能性はあるのか?

本書は、「一緒にいてもスマホ」がこれまでの「人間らしさ」を阻害することは十分に説明しているが、その人間らしさが変容する可能性については言及していない

しかし、「一緒にいてもスマホ」な状態を平然と受け止め、問題視もせずにいられる人々は、素人考えからすると十分に出現しうるというか、既に出現していると思う。そのような人々は私からすれば悲しくて恐ろしくてたまらないが、本人たちがストレスなく幸せに生きられるのであれば受け入れるしかないだろう。そうではない人もいることを知っていてほしいけれど。

ヘイルズのようなハイパー・アテンションに順応している人たちがそれに当たるのだろうか? 本書では、彼らが日常生活にストレスを感じているかどうかまでは窺い知れなかった。この問題について多角的に、冷静に考えるためには、デジタル・テクノロジー全面擁護派の主張も吟味する必要がある。








最後までお読みくださり、ありがとうございました。

冒頭でも紹介しましたが、わざわざ本まで読みたくないわ、と思った方は彼女のTEDスピーチだけでも観てみてください。本書の彼女の主張が端的にまとめられ、19分ほどのスピーチになっています。

またこれも既に紹介しましたが、本書を引用して書かれた『デジタル・ミニマリスト』も非常に示唆に富んでおり、大いに心を動かされました。このブログでもレビューと感想を書いているのでよろしければお読みください。

さらに、『デジタル・ミニマリスト』のアドバイスに従い、私もデジタル・ミニマリストになるべく計画を立て、実践しました。その内容をこちらの記事およびこちらの記事に記載しました。ご興味があればどうぞ。