星を匿す雲

主にTVゲーム、漫画、小説、史跡巡りの感想を書いているブログです。基本的に【ネタバレあり】ですのでご注意ください。

【レビュー・感想】知ってるつもり 無知の科学:私たちが「英雄」を作る理由

皆様こんにちは。赤城です。

ティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック著、土方奈美訳の『知ってるつもり 無知の科学』についてレビューと感想を書きました。




本書を手に取ったきっかけ

はじめに、本書を手に取ったきっかけをお伝えします。

本書を知ったのは、下記のツイートからでした。

色々な界隈で、傍目から見れば大した知識もないのに自分たちの意見は絶対に正しいと思い込んで先鋭化していく人々が見受けられます。高度な知性・人格を持ち合わせていると思われる人でさえ、先鋭化の波に巻き込まれたり、旗印として担ぎ上げられたりすることも珍しくありません。

いったいどのようなメカニズムで、彼らは自分たちが正しいと思い込むのか? 彼らを見かけたり、彼らから何かのはずみで絡まれたりしたときに、げんなりしてやり過ごす以外の方法はないか? また、私自身がそのような状態に陥らないためにはどうしたらよいか? そういった疑問に対していくばくかの答えを得られることを期待して、本書を読むことにしました。




レビュー

次に、本書のレビューをお伝えします。



要旨

私たち個人個人は、自分自身で認識しているよりもずっと無知である。

私たちはこの複雑な世界の全てを理解することなど到底できないので、自分の頭の中にはわずかな情報しか記憶していない。

その代わり、私たちは世界そのものの不変性・普遍性を頼りにして思考・行動する。

さらには、協力して「知識のコミュニティ」を築くことにより集合知を生み出し、それを無意識のうちに活用している。この「知識のコミュニティ」こそ、私たちのこんにちまで及び将来における進歩の礎である。


無知であることを十分に自覚できないのは、「知識のコミュニティ」の知識を自分個人の持っている知識であると錯覚しているからだ。また、依拠している「知識のコミュニティ」の持つ知識が実際には不十分な(実はその中に十分な知識を持つ人が誰もいない)場合もありうる。

それにより、私たちは誤った方向へ進むこともあれば、より良い方向へ進むこともある。

私たちは、今後も「知識のコミュニティ」を存分に活用しながらも、無知を自覚していないことにより誤った方向へ舵を取らないよう気を付けなければならない。



総評

本書は、心理学、コンピュータ・サイエンス、ロボット工学、進化論、政治学、教育の分野から、上記のような、人間が無知である理由、無知であることを自覚しない理由を説明している。いずれも明白な科学的論拠を挙げての説明なので、誰かの無知や無理解を単に感情的に嘆いたり根性論で叩き直そうとしたりする自己啓発本(?)の類を購入するよりもよほど実になると私には思われる。


個人的に白眉だったのは「第10章 賢さの定義が変わる」だ。この章は、実際には「知識のコミュニティ」の成果であるはずの業績が、しばしばそのコミュニティ内で目立って活躍していた者のみの業績として認識される――「英雄」が作り出される現象の原因とそれが引き起こす問題について詳しく解説している。

マーティン・ルーサー・キングキュリー夫人アインシュタインなど、多くの人が「尊敬する・目標にしたい人物」として挙げる人々は、果たして彼ら自身を評価するだけで事足りるのだろうか? 彼らの属していた「知識のコミュニティ」も正しく評価するべきではないだろうか? そして、これから現れるであろう数々の「英雄」についても同様に……。


確固たる科学的な論拠に基づき、数々の気づきを与えてくれる本である。少しでもご興味のある方は、ぜひ最初から最後まで読み通してみてほしい。




既に本書を読まれた方、読んでないけど暇だしお前の感想も読んでやろうかなって方は、すぐ下に続いている感想もどうぞ読んでいってください!





感想

以降では、本書を読んでの私の感想をお伝えします。



無知であることを(若干)達観できるようになった

私は自分が度を越した無知であると思っている。それが、本当に、たまらなく嫌だった。また他の多くの人々も私と同じくらい、いやひどい人は私よりも無知である(ように見える)ことにも非常にうんざりしていた。

本書を読み終えてその嫌だとかうんざりだとかがなくなったかと言われれば全くそんなことはない。今(2020年2月下旬)も新型コロナウイルスで過剰に騒いでいる人々を見て非常にイライラしている。そのくせ自分ではなんら医学に関する専門知識を持っておらず、信用できそうな専門家の発言を信頼するしかないのが悔しい。また、だからといって専門家張りの専門知識を身に着けることなど自分には無理だと知っている。


しかし、なぜ人間は無知になりがちなのか、そして無知であるくせになぜ十分に知っていると思い込み望ましくない行動に走るのか、自らの無知に起因する誤った言動を抑えるためにはどうしたらよいか、が本書を読み通して(本書の主張する内容については)理解できたので、上記のような気分になったときに、まあ仕方ないんじゃね? そんなことより本読むか小説書くかしろたんもふもふすれば? どうしても立ち上がらなきゃならないときは専門家の意見を冷静に聞こうぜ? と自分をなだめられる確率が高くなった。非常に良い変化だと思っている。



第4章 なぜ間違った考えを抱くのか

第4章では、人間は、日頃頻繁に経験しているメカニズムが、自分のよく知らない物事についても同様に働くと推論しがちという指摘がある。なぜなら、すべてを知っていなければならないとしたら、あっという間に人間の手に負えなくなる(p. 88)からだ。もっと身も蓋もない言い方をすると、どんな天才であろうと、この世に存在する事象の全てを完全に理解するには脳のリソースが圧倒的に足りないのである。

これにはなかなか衝撃を受けた。言われてみればその通りだと思うが、自分の力でそれをはっきりと自覚するのは難しいので、こうして言語化してもらえて助かった。


自分の知っているメカニズムをよく知らない物事にテキトーに当てはめるのは、ただ心のうちに留めておくだけであればさほど問題はない、と思われる。だが、その推論を元になんらかの行動を起こすことには十分注意しなければならない。一歩間違えれば大惨事を引き起こしかねないからだ。私たちはその具体例を嫌と言うほど知っている。


『ファクトフルネス』との類似点

余談だが、この部分は少し前に読んだ『ファクトフルネス』と重なっていると感じた。
『ファクトフルネス』では、人間が陥りがちな思い込みのひとつとして「単純化本能」が挙げられている。簡単に言うと、人間は世界をとかく単純に考えたがるもので、その傾向を後押しするのが専門知識と政治思想である。専門知識を持っているからと言ってそれを専門外のところにも適用できると考えたり、自分の支持している政治思想だけが正しいと思い込んでしまうのだ。といった内容である。この本能をどのように抑えればよいかは割愛する。専門知識=日頃頻繁に経験しているメカニズムと捉えると、言っていることはほぼ同じだ。ためになるのでぜひ読んでみてください(ダイマ)



第10章 賢さの定義が変わる

総評でも書いた通り、第10章では「英雄」が作り出される現象の原因とそれが引き起こす問題について多くのページが割かれている。


例えば、マーティン・ルーサー・キングは今やアメリカの公民権運動の「英雄」となっている。しかし、あの運動を作り出したのは彼一人ではない。彼の他にマルコムX、ローザ・パークスなどのちょっとマイナーな運動家の名前を加えさえすればそれで公民権運動の全貌が把握できる、こともない。実際には、公民権運動は、彼ら「英雄」の属していた「知識のコミュニティ」の人々の地道な努力により発展し、良い結末を迎えた。もちろん「英雄」が運動の起爆剤、促進剤にはなったし彼らも一生懸命活動してはいただろうが、運動を支え、強大な潮流へと変化させたのはそのコミュニティに属していた無名の人々なのである。

こうした「英雄」が作り出されるのは、大勢の人々がさまざまな目的を同時に追求するという、途方もなく複雑な状況を理解し、すべてを記憶するのは不可能だからだ。その代わりに事象を小さな塊にまとめ、たった一人の個人に帰属させることで、一連の出来事の複雑さや凄惨さを見ないで済むだけでなく、魅力的な物語を語ることができる(以上、p. 218より引用)。ヘラクレスやヤマトタケルなどの神話の登場人物が数多くの武勇伝を持っているのもそれゆえである。彼らの武勇伝が現実の話だと思う人はそう多くはあるまい。しかし公民権運動がキング牧師一人(あるいは、キング牧師+その他活動家数名)の功績だと言われたとき、咄嗟に「違うよ」と否定できる人はどのくらいいるだろうか? 私はこの章を読むまで無邪気に「キング牧師が全てを変えたのだ」と思い込んでいた。


特定の人物を「英雄」視することの問題点は何か? それは「知識のコミュニティ」の力を軽視・無視することだ。

本書を読むと、人間一人ひとりは思いがけず無知であることが分かる。多くの素晴らしい功績は、実際には人々がそれぞれの得意分野の知識を持ち寄って作った「知識のコミュニティ」が十分に機能したときに達成されていることも分かる。したがって、もし功績の挙がる要因がコミュニティではなく個人にあるものと考え、能力が高い(ように見える)個人ばかりを重用し、評価して成果を挙げようと思っても、コミュニティの力が十分に働かないことが多いため、うまくいかないのである。

能力が高いように見える個人ばかりを重用・評価して失敗するというのはよく見る光景だ。また、実際には「知識のコミュニティ」の力で成功を勝ち取った人物が、あたかも自分の力だけで全てを手に入れたような顔をして、成功していない人々を見下すというのもやはりよく見る光景である。そして、そんな自慢屋に対して卑屈になり、自分はなんてダメな人間なのだ、と思い込んでしまう人も見慣れている(誰あろう私のことだ)。私はそのような場面に出くわすたび、何かが決定的に間違っているんじゃないかと感じていたが、本書でそのひとつの答えを得られてほっとしている。


なお、この「知識のコミュニティ」の功績を特定の個人に帰する傾向は、良い事実だけでなく、悪い事実にも適用できると思われる。例えば日本の経済・政治の状況が悪化しているのは全部H山さん/A倍さんのせいであるとか、第二次世界大戦時にドイツの犯した罪を全てヒトラーに被せるとか。


そういえば『ファクトフルネス』でも同じようなことが書かれていたのを思い出してちょっと感銘を受けた。ファクトフルネスの方では「犯人捜し本能」で論じられている。ためになるのでぜひ(略)。



お前は『ファクトフルネス』の回し者か?

ところで先ほどから何かと『ファクトフルネス』を話題に上げている。お前はこの本をダシにして『ファクトフルネス』を宣伝したいだけじゃないのか? アフィカスかこの野郎!? と言われてしまいそうなので弁明させていただきたい。


私は読書において「別々の場所で得た知識同士が繋がる」経験をしたことがなかった。ほとんど読書をしない人間だったからだ。

ところが、最近になって読書をしたい欲がちょっと出てきたので試しに何冊か読んでみたところ、「あの本に書いてあったことと似たようなことがこの本にも書いてある!」とか「あの本とこの本の言っていることは真逆だ!」みたいなのがめちゃくちゃ出てきて大変面白い。特に(当たり前だけど)似たような分野の本を読むとそれが顕著でますます嬉しくなってしまう。この高揚感はぜひ記録して残しておきたい。ゆえに『ファクトフルネス』と本書の類似点についてもいちいち書き立てている次第である。

今後読む本についても同じように積極的に他の本と繋げていき、本を読む速度が上がってきたら並行読書にも挑戦したいと思っている。以上、内容と全く関係ないことを長々と失礼しました。



無知により誤った行動を取らないためには?

私たちが、自分が思っている以上に無知であることは十分に理解した。それでは、無知により誤った言動を取らないためにはどうしたらよいのだろうか?


「説明深度の錯覚」を認識する・させる

本書では、複数箇所で「『説明深度の錯覚』を認識する・させる」ことを有効な解決策のひとつとして言及している(特に「第11章 賢い人を育てる」に詳しい)。その物事がどのような仕組みで動いているかをヒントなしで自分の力で説明してみる。そうすることで、私たちは自分が思っていたほどその物事についての知識を持っていない=「知ってるつもり」になっていたことに気づき、あやふやな知識をもとに行動することに慎重になれるというのである。

なるほどと思った。自分の無知を冷静に自覚できれば、多くの人は謙虚になり、過激な言動を取ることを控えるだろう。ソクラテスの「無知の知」とはまさにこれのことだ。

ただし、これはその物事に対して強固な信念を持つコミュニティに属している人々にはあまり効果がないとされる(「第8章 科学について考える」に書いてある)。とある人が「自分たちの知識は誤っているのでは?」と思っても、それを声高に主張することは、その人が属するコミュニティから疎外されることにつながるからだそうだ。私は、冒頭で述べた、本書を手に取ったきっかけである「一部の人々の先鋭化現象」がなぜ一向に収束しないのかが腑に落ちた。もちろん、原因はこれだけだと簡単に決めつけることはそれこそ「知ってるつもり」になりかねないので気を付けたいが、原因のひとつを構成していると考えておいてよいと思う。


信頼できる専門家を見定め、その意見を仰ぐ

解決策としてもうひとつ複数回言及されているのが「信頼できる専門家を見定め、その意見を仰ぐ」ことである(これも第11章に詳しい)。自分がとある分野に関して無知であり、またその分野の知識を獲得する力も残念ながら持っていないことは、決して恥ずべきことではない。知識を獲得できないなら獲得できないで、専門家を頼ればよいのだ。

ただ、この「信頼できる人を見定める」力をきちんと身に着けられているか(そして今後身に着けられるか)どうか、今の自分にはちょっと自信がない。見定める方法として挙げられているのは、

  • エビデンスがあるか
  • 何に掲載されているか
  • その人物の経歴や他者からの評価は信用に足るか

である。これらについて、私は確かに大学で一度習った。そしてそれ以来実践しようと心掛けてきた。だが、自分の興味のある分野以外に関してはきちんと実践できているか大変心許ない。そういった能力を養う方法について詳しく書かれた書籍とか教養講座とかをご存知の方がいらしたら、ぜひ教えてほしい。