星を匿す雲

主にTVゲーム、漫画、小説、史跡巡りの感想を書いているブログです。基本的に【ネタバレあり】ですのでご注意ください。

私が絵描きではなく字書きをやっている3つの理由

小説を書く趣味を4年越しに再開した。

なぜかと聞かれればそれは簡単だ。書きたいことができ、なおかつ、書くだけの時間が確保できたからだ。

ブログ運営の趣味を続けておいてこれほど良かったと思ったことはない。私がどこに需要があるか分からない記事をネットの海に延々放流し続けているのは、小説を書くための訓練の一環としての意味が大きいのだから。(参考記事:2017年の「星を匿す雲」:各種データと記事紹介 - 星を匿す雲


このように、自分が小説を書く気満々なのは非常に喜ぶべきことだし、書いている間は苦しくも非常に充実した気分を味わうことができ、楽しい。しかし、生理現象や仕事のために執筆作業から離れると、私は20%くらいの確率でとある思いに苛まれる。

でも、小説よりもイラストや漫画の方が多くの人に見てもらえるんだよなあ。なんで私、小説なんか書いてるんだろ。

ジャンルにもよるが、文章と絵の閲覧数の格差は大抵、本当にえげつない。SNSでの拡散率も全然違う。私自身、小説とイラスト(漫画)を同時に目の前に出されてどちらを先に見るかと聞かれたらまず後者を選ぶだろう。

正直言って悔しいつらい。私の小説もあれくらい多くの人に読んでもらいたいし、評価してもらいたい。もうなんていうかものすごいコンプレックスになっている。

だが、私はそれでも、小説を書くのだ。絵ではなく、小説を書き続けるのである。


前置きが長くなってしまったが、この記事では、

  • 私はなぜ絵描き(絵師)を羨ましいと思うのか

  • 私はなぜ絵描きではなく字書きをやっているのか

について説明する。




絵描きを羨ましいと思う理由

絵描きの皆様を羨ましいと思うのは、既に述べたように、イラストや漫画の方が多くの人に見てもらえるからだ。では、なぜ多くの人に見てもらいたいのか?



チヤホヤされたいから、ではない

よく、人気になってチヤホヤされたいから、というのが理由として挙げられる。だが、私はこれには当てはまらない潜在的な願望としては存在するのかもしれないが、私は自覚している限りでは、人に注目されるのが大嫌いだ。

え? ブログという自己顕示欲の塊のようなものを運営しといて何言ってんの? と思われる方がいるかもしれない。であれば、あなたは私や私と同じ考え方を持つ一部のブロガーを誤解している。

私は、私自身が人気になりたいからブログを書いているのではない。私が見つけた面白いコンテンツ、および、それらのコンテンツについて私が感じたことや考えたことを多くの人に向かって発信し、あわよくば共感してもらいたい。

だから、このブログでそれらのコンテンツを紹介もしくは考察している「赤城みみる」自身に対する栄誉は一切不要なのである。(もちろん、栄誉が要らないからと言って記事をコピペされてもよいのかと聞かれたら、それはまた別問題だが。)


自分自身ではなく自分の作った物語を広めたい、という願望

字書きの私が絵描きを羨ましいと思うのは、これと全く同じ理屈から来ている。

私は、自分の心の中で、あるいは他人の作品を体験する中で湧き上がった(自分では)傑作だと思っている物語を、多くの人に向かって発信し、あわよくば楽しんでもらいたい

物語の発信者としての自分は注目されなくても構わない、むしろ注目されたくない。しかし、その物語自体は、多くの人に読んでもらい、「面白いから続きが欲しい」と思ってもらいたい、あるいは、つまらなければダメな部分や不足している部分を徹底的に指摘してもらいたい。

そのためには、より多くの人に訴求できる表現手段の方が都合がいいのである。




絵描きではなく字書きをやっている理由

であればなぜ、なおのこと、イラストや漫画で表現しないのか? と疑問に思われることだろう。これには3つの理由がある。



絵が描けない

まずは、消極的な理由から述べよう。ずばり、私は絵が描けないのだ。

練習すれば上達するよ、と人は言う。そう、確かに練習すれば上達する。私もこれまでの人生のうちでイラストや漫画をいくらか練習していた時期があり、そのおかげで一応、何を描いているか全く分からないレベルからは脱した。


練習する意欲がない

だが、その練習は続かない。だから上達もしない。なぜ続かないかといえば、第一に、練習する意欲がないのだ。

私は努力をすることが苦手だ。だから、そもそも何をやっても続かない。絵について言えば、練習すると決意してから1、2日の間は家の中の静物やら窓から見える風景やらをスケッチしてみるが、残念ながらその後が続かない。

その傾向を加速させているのが、現実世界のあらゆる物体の視覚的な細部に興味がないという私の脳味噌の構造だ。

例えば、人間の体つきがどうなっているかとか、犬がどのような格好で歩くかとか、リンゴの赤みが部位や光の反射によってどのように変わるかなど、絵描きとしては是が非でも注目しなければいけないポイントに一切興味が湧かないのである。人間も犬もリンゴも、なんかいるなんか赤い、という程度の認識に留まってしまう。これでは絵を描く練習をしようにも、十分に観察して描くことができないため、苦痛だし、時間の無駄だ。

一方で、文章を書くことは、継続的な努力が苦手な私でも続けられているただ一つの例外だ。なぜかというと、私は対面で人と喋るのが非常に苦手なため、なるべく多くのことを文章で済ませているからだ。私にとって全てのコミュニケーションのベースは文章なのである。だから、この世で生きるために、好むと好まざるとにかかわらず努力せざるをえないのだ。


スキマ時間に練習する場所がない

絵が上達しないことの第二の原因は、第一の原因と比べると些末だ。ちょっとした空き時間に練習する場所がないというものである。

ちょっとした空き時間より、まとまった練習の時間を取る方がいいのでは、と考える方がいるかもしれない。しかし上述したように私は飽きっぽいため、まとまった練習の時間は早々に昼寝やゲームの時間に変わってしまう可能性が高い。それよりは、いわゆるスキマ時間の活用を目指すべきだ。

小説は、手書きでもガラケーでもスマホでも書けるし、いざとなったらICレコーダーに録音しておいても大丈夫だ。ぱっと見では何が書いてあるか分からないから、他人に中身を読まれて恥ずかしい思いをする確率も低い。したがって、満員電車に乗っていたり急勾配の山肌を上り下りしている途中だったりしない限り、どこにいても練習できる。

だが、絵を練習するときにはなんらかの筆記用具と、ある程度の安定したスペースを必要とする。したがって、揺れる電車やバスの中では練習できない。さらに、何を描いているかすぐに分かってしまうので、私のような恥ずかしがりの人間は外出先で練習すること自体をためらう。

つまり、通勤その他において、安定した、プライベートなスペースを確保できない時間の多い私にとって、スキマ時間でさえも、絵の練習はハードルが高いのである。



想像の余地を残したい

ここからは、私が小説を書く積極的な理由を述べたい。


小説は読者の想像力を自由に羽ばたかせる

第一の積極的な理由として、物語に想像の余地を残したいことが挙げられる。

小説を読むことの楽しみは、作者が描いていない部分を自分で想像することにあるのではないかと思う。登場人物が具体的にどのような容姿をしているかとか、彼らの後ろにどのような風景が広がっているかなどだ。

基本的に、イラストや漫画は、ひとつひとつの場面を視覚的に細部まで表現してしまうため、読者の想像の余地がない。もちろん、登場人物が内心どのようなことを考えているかや、場面の裏で何が起こっているかなどはいくらでも想像できるが、それは論点から微妙にずれている。

小説の方が、読者の想像力を自由に羽ばたかせてくれるのである。だから、作者から特別注文がついていなければ、登場人物を自分の知っている誰かとそっくりの人間にしてもいいし、例えば彼らの背中を夕焼けが照らしているのだとしたら、まだ暮れ始めたばかりの明るい橙色にしても、もうほとんど夜になりそうな感じで下の方に紫色の混じった紅蓮にしてもいい。

余談だが、小説が漫画やアニメ、映画になったときに拒絶反応を示す人は必ず一定数いる。そのうちのいくらかの人たちは、小説に接した際に自分なりに想像した世界と違っていたから失望してしまったのだろう、と私は思っている。


小説は作者としてはどうでもいいことを読者の想像力に委ねられる

私は小説の想像の余地があるという側面を読者としても作者としても大変気に入っている。読者としては純粋に楽しい。作者としても「読者に想像の余地を楽しんでもらいたい」という思いは無論ある。しかし、それよりは、「助かる」というのが正直な話である。

なぜなら、上述したように、私は基本的に物体の視覚的な細部に興味がないからだ。もっとまともな言い方をすると、他により注意を割きたい部分がある(これについては後述する)。

それゆえ、主人公を含む登場人物がどんな容姿であるとか、周りがどんな様子かとか、場合によっては重要だが大概どうでもいいのだ。そんなのは最低限読者が置いてけぼりにならないだけの描写をしておいて、あとは好きに想像してもらえればよい。あるいは、私同様そういうことに関心のない読者であれば、わざわざ想像せずに労力を節約してもらってもよい。

これは小説の非常に大きな強みだ。イラストや漫画だとなかなかこうはいかない。絵描きに「白背景でごめんなさい!」という人がときどきいるのも無理もないことだ。たまに「細部を描き込むことこそ楽しい!」という絵描きを見かけると、自分とは随分感性が違うなあと思う。



視覚以外の感覚および思考を表現したい

積極的な理由と言っておきながら結局半分くらい消極的な理由っぽくなってしまった想像力云々の話と異なり、こちらは正真正銘、積極的な理由である。


私は、自分にはあまり興味が湧かない視覚的な情報よりも、その他の感覚(聴覚、触覚、味覚、嗅覚的な情報、および、登場人物の思考を深く穿って読者に伝えたい。それには、絵よりも小説の方が伝達手段として優れていると考えている。

確かに、熟練の絵描きともなれば、表現技法を駆使してリアルな音や触り心地、味わい、臭い、登場人物の感情を伝えることはできるかもしれない。しかしそれでも、文章による表現には敵わないと思う。限られた画面の中で全てを描ききらなければならない絵と異なり、小説では描写しようと思えばいくらでもその部分に文字を割けるからだ。


特に、登場人物の思考に関しては、小説は絵よりも圧倒的に多くの、正確な情報を伝えることができる。

例えば、とある男性が屋上で手すりに寄りかかって涙を浮かべているとしよう。

絵ではこの男性の心中を表情や背景のモヤッとした効果でしか表現しようがない。

漫画では、それらに加えて多少は心中語を書き出すことも可能であるが、あまり多いと『デスノート』みたいに文字だらけになってしまう(ディスっているわけではない、デスノートはこの世で最高に面白い漫画のひとつだ)。10ページも20ページも彼の心中の苦悩だけでコマが埋まってしまう漫画なんて嫌だし、その間ずっと同じ構図というわけにもいかないから作者としては見せ方が非常に難しい。

一方で、小説はどうだろう。1ページでも2ページでも100ページでも、彼の苦悩を思う存分表現することができるのだ。もちろん、読者に最後まで読んでもらいたいと思うのであれば、冗長にならないようありとあらゆる工夫を凝らさなければならないけれども。


このように、小説は視覚以外の感覚および思考を表現することにおいて、絵よりも優れている

そして、私は多くの場合、殊に登場人物の思考を詳しく描写したいのだ。ぶっちゃけ彼らがどんな表情をしていようがその場にどんなものが置いてあろうがどうでもいい。ただひたすらに登場人物全員の思考の流れをつぶさに描きたい。

ゆえに、私は絵ではなく、小説を自分の物語の表現手段として積極的に選択しているのである。




まとめ

これまで、私が絵描きを羨ましいと思う理由と、それでも絵描きではなく字書き(小説書き)をやっているのはなぜか、を説明してきた。もう一度、簡潔にまとめたい。

私が絵描きを羨ましいと思うのは、字書きよりも多くの人に作品を見てもらえる可能性が高いからである。

それでも、絵が描けないこと、想像の余地を残したいこと、視覚以外の感覚と思考の表現に重きを置きたいこと、の3つの理由から、私は絵描きではなく字書きをあえて選択している


これからも私は、

んなこと言ったって絵描きの人が羨ましいんだよぉぉぉぉんあ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!

などとトイレや布団の中で暴れるだろうし、ときどきは性懲りもなく絵を描く練習をするだろう。そしてゆくゆくは字書き兼絵描き(笑)になったりするかもしれない。

しかし、私が小説を書くことには確固たる理由がある。

だから、私は小説を書き続ける。次に飽きるそのときまで、誰も読んでくれなくても、愚直に、魂の命じるままに。




おまけ1:そうは言ってもしばしば陥るジレンマ

視覚以外の感覚と思考の表現に重きを置きたいから絵ではなく小説を書いているんだよ!! とか宣言しておいてアレだが、漫画やアニメ、ゲームなど、視覚優位なコンテンツの二次創作をしている際は、視覚的な美しさを描写したくなることがあるし、気づけば文章が視覚的な表現ばかりになってしまっていることもある。

そうすると、次はいかに視覚を美しい言葉で表現するかの勝負になるのだけれども、私は文学的な表現に全く向いていない。抽象表現の多い文章が嫌いなので読まないし書かないのだ。だから、この記事に書いているのと同じようなきわめて平凡な、文学的にみれば退屈な言葉で描写を続けることになる。

これでは本当に絵を描けないから小説を書いているだけだ。非常に頭が痛い。なるべく小説でしか表現できないことを盛り込むようにしたいと思っている。




おまけ2:小説を書くのは絵を描くよりも簡単か?

絵描きの人からたまに「小説の方が簡単だよね? すぐ書けるじゃん」と言われる。

創作の苦労話をしているときに私が「字書きって全然読んでもらえなくてつらい。絵描きが羨ましい><」などと字書きが絵描きに言っちゃいけない言葉ナンバー1みたいなことを無意識に愚痴ってしまった結果出てくる言葉なので、十中八九「当たり前だろ、こっちはそれだけ苦労してんだよ。羨ましいならテメエも絵描きになれや」みたいな意味を込めて嫌味で言っているのだと思うが、あえて大真面目に弁明しておきたい。


私の主観で言わせてもらうと、小説を書くのは全く簡単ではない。もし私の小説と絵の熟練度が同程度であれば、おそらく同じくらい大変だと感じるであろう。


ただ思いついた通りに文を並べるだけでは、小説としては不十分だ。そのような作り方でも一応完成はするが、それでは多くの人は最後まで読んでくれない。大多数の読者に面白く読んでもらえる作品に仕上げるためには、全ての場面において登場人物の動作・声色・雰囲気・心情、周囲の光景・音・空気感などのあらゆる描写を極限まで洗練させた上で、物語全体を読者を飽きさせないよう巧みに、注意深く構成しなければならない。そしてそのような工夫を凝らすためには、これまでにいかに多くの文章に触れたか、いかに多くの文章を書いたか、が重要になってくる。

私は、イラストや漫画の練習をしていたとき、人物の表情、物体の配置や角度、線の太さ、色遣い、コマと効果音の使い方など、似たようなことに大変神経を使っていた。また、それらのセンスを身につけるためにはやはり字書きと同じように多くの作品に意識的に触れ、長い下積み期間を経なければいけないと悟ってげっそりした思い出もある。

以上の通り、小説は絵と同様に、気の赴くままに書いていればできあがるものではない。少なくとも、私の場合はそうだ。


あと、計算したところ、私が1時間あたりに捻出できる小説の文字数は平均で200文字程度だった。1時間かけても、この項の「私は、イラストや漫画の練習を」~「私の場合はそうだ。」くらいしか書けていないことになる。もし文章ができあがってから推敲している時間も計算に入れれば、さらに文字数は少なくなるだろう。驚くべき低速だ。さすがにブログの文章はもっと速く書ける(この記事は1270文字/時間くらいで書いた)。

他の字書きや絵描きの皆様がどのくらいの速度で作品を仕上げているか知らないが、このようにすごく時間がかかるという意味でも、私自身にとって小説を書くのは全然簡単ではない。創作とは等しく大変で、苦しくて、楽しいものだ