星を匿す雲

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主にTVゲーム、アニメ、歴史漫画、史跡巡りの感想を書きます。基本的にネタバレあり。

【スキあらば自分語り①】ポケモンで人生始まった話

ある程度年齢を重ねた人ならば必ず、自らの人生に決定的な影響を与えた事があるだろう。それは、誰かとの出会いだったり、1冊の本だったり、旅先の景色だったりするかもしれない。

私にとって、それは常にサブカルチャーであった。より具体的に言うと、ゲーム、漫画、アニメだ。一昔前の「常識的」な大人たちから見れば低俗極まりないとされたこれらのコンテンツを、私は愛し、同時に憎んできた。

中でも、私を今、ここに導いたコンテンツは3つ。ゲーム『ポケットモンスター』、漫画『封神演義』、アニメ『おそ松さん』である。

私の人生は、『ポケモン』で始まり、『封神演義』に狂わされ、『おそ松さん』に救われた。

人生の節目となる今の時期に、一度これらのコンテンツを通して過去を振り返りたいと考え、「スキあらば自分語り」シリーズと題して連載を行うことにした。

これからお伝えするのは、そのうちの最初の1つ。ポケモン』で私の人生が始まった話である。




「白馬の王子様」願望

保育園に通っていた頃は年齢のわりにだいぶませていたと思う。今の私からは到底考えられないことだが、友達の真似をして一生懸命おしゃれに精を出したり、同じ園にいる男の子に片思いしてみたりしていたのだ。

今考えれば一番幸せな時代だった。いつだって世界は幸福に満ちていて、私自身の幸せも向こうから勝手にやってくると信じられたから。

日々空想することと言えば、前述の片思いの男の子と結婚して専業主婦をやりたいとか、某セーラー服の美少女戦士として活躍してピンチになったところをタキシードのヒーローに助けてもらいたいとか(あれは本来「ヒロインが助けられること」が主眼の話ではいようだが、当時の私はそのような解釈しか持っていなかった)、もっと抽象的に、白馬の王子様が自分を本当の居場所に連れていってくれるとか、そんなことばかりだった。そしてそれがいつか実現すると信じて疑っていなかった。

私は、受け身でミーハーで夢見がちな女の子だった。




運命の第1世代「カントー地方

ここから、私の『ポケモン』との出会いについて語る。



ポケモン』とは

はじめに、『ポケモン』自体をご存知ない方も多いと思うので軽く説明しておく。既にご存知の方は次の項目まで飛ぶことを推奨する


世界観

ポケットモンスター』略して『ポケモン』は、TVゲームシリーズおよびそれを原作にしたメディアミックス作品、ならびにその中で登場する生き物を指す。

TVゲーム『ポケモン』の主役は「ポケモン」である。

ポケモンは、火や電気などの自然の力を身体に秘めた不思議な生き物だ。人間たちの多くはこの生き物の一部を捕獲・育成して、自分たちの生活を助けてもらっている。中でも、自分の捕獲したポケモンを他のポケモンと戦わせることを趣味もしくは本業としている者たちを広義で「ポケモントレーナー」と呼ぶ。

「何その動物虐待!?」と震え上がる方がいるかもしれないが、ポケモンを殺すことが目的ではなく、犬の散歩のようなものだと思ってほしい。丁寧に世話をしたり、戦わせたりすることで友情を育むことができるのだ。また、人間に捕獲されていないポケモンのほとんどは獰猛なので、彼らから身を守るためにも仲間のポケモンを連れ歩くことは重要である。

ゲーム『ポケモン』シリーズ本編のプレイヤーキャラクター(主人公)は、「ポケモントレーナー」になったばかりの少年少女だ。『ポケモン』の世界には、一定の年齢に達した子供が修行として各地を巡る習慣がある。彼らはポケモンを研究している博士からポケモンを1匹譲り受け、各地を巡るついでに「ポケモン図鑑」の記録を手伝ってほしいと言われる。

ゲーム本編の物語は、以下を三本柱として進行していく。

  • 図鑑の記録作業
  • ポケモントレーナーとして各地の強力なトレーナーと戦い、勝利すること
  • ポケモンを悪用して反社会的な活動を行っている悪の組織を打倒すること


ゲームソフトについて

ゲーム『ポケモン』シリーズ本編は、同じ舞台とほぼ同じストーリーを持つソフトを2バージョン~4バージョン同時販売するという特徴がある。

例えば、第1作目の「カントー地方」が舞台となるソフトは、「赤」バージョン、「緑」バージョン、「青」バージョン、「ピカチュウ」バージョンの4種類発売された。バージョン毎に出現するポケモンが違ったり、微妙にストーリーが違ったりするため、1人で両方購入する人もいれば、友人や家族、恋人と1バージョンずつ購入して楽しむ人もいる。

以降、いきなり○○バージョンがどうのという話が出てくるが、まあそういうことなんだなと流していただければ幸いである。




はじめの一歩

さて、ここから本題に入りたい。


私がゲーム『ポケットモンスター』と出会ったのは、小学1年生のクリスマス。アニメ『ポケットモンスター』を観て、原作のゲームをぜひともやりたいと両親に懇願し、プレイは1日1時間だけという制限のもと、購入してもらった。

プレゼントの箱の中に入っていたのは、『ポケモン』の第1作目のソフトの1つ、「」バージョンだった。

プレイしてすぐにハマった私は、お年玉などで「」「ピカチュウ」「」も購入。

4バージョンとも、最後の関門である「ポケモンリーグ」クリアまでやり込んだ。

やりごたえとしては、「ピカチュウ」バージョンが一番だった。何せ、アニメの人公のように大人気キャラの「ピカチュウ」を仲間にでき、ピカチュウを後ろに連れ歩け、アニメに出演する敵役とも戦えるのだ。アニメの主人公の活躍を追体験できるという意味で、ピカチュウバージョンは実に感動的だった。


なんだ、小学1年生でポケモンを選び取った時点でお前は既にオタクの素質を持っているじゃないか、と思われたかもしれないが、それは少々結論を急ぎすぎである。昔も今も多くの幼い子供たちがそうであるように、私も幼少期は平日の夕方や土日の朝に放映されているアニメを逃さず観ていた。その中で特に友達の間で話題になっていたアニメのグッズはポケモンに限らず買ってもらっていたのだ。

ただ、その頃から現在に至るまで関心を持ち続けているのは、ポケモンただひとつとなった。その意味では、確かに素養はあったのだろう。また、ポケモンがそれだけの魅力と戦略を持ったコンテンツであるとも言える。



ゲーム脳」で逃した未来

元々、両親は私の視力があまり良くなかったために「ゲームは1日1時間以上」と制限をつけたらしい。まもなくその制限はどこぞの精神科医が提言した「ゲーム脳」(ゲームには依存性があり、プレイすると知力が低下するという説)への恐怖からより頑なで強迫的なものになる。私は大人になってから問題の著書を読み、論拠のいい加減さに怒りを通り越して呆れたのだが、正直あの主張は私に関してはあながち間違ってはいないと感じた。


誰かにとって強大な魅力を持つコンテンツを、彼/彼女がもっとたくさん味わいたいと思うことは自然の流れだ。たくさん味わえば当然より楽しくなって、さらにたくさん欲しい……と無限ループする。そうすると当然、生活に支障をきたす。ゲームでも酒でもパチンコでも仕事でも、なんだって同じだ。

無限ループに迷い込む前に踏み留まり、依存症にならずに済むのが世の中の考える「正常な」人間らしい。


しかし、私は残念ながら、自分を律することが限りなく苦手だ。そして私にとって、ポケモンは最高の遊びだった。「赤」をプレイしたあの日から、ポケモン、ひいてはゲームの楽しさにハマって抜け出せなくなった。親の目を盗んで1日1時間以上プレイしたのはもちろんのこと、親の監視が緩んだ高校時代以降は、もっとやり込んだ。ゲーム依存症と言って差し支えないだろう。


さらに困ったことに、ゲームをはじめとする娯楽以外の物事に努力することも苦手になった。学問や運動、芸術など、継続的な努力が必要とされる物事に大変な苦痛を感じるようになったのである。尤もそれはゲーム脳のせいではなく私の元々の性質である可能性が高いが、もしゲームという娯楽を知らなければ、仕方なく、比較的得意な学問を自分の娯楽と捉えて打ち込んでいたであろう。


以上のことから、もしポケモンを好きにならなければ、今頃はもっと高い社会的地位を得ていただろうと、冗談ではなく考えている。それがとてつもなく悔しい反面、どこかほっとしている自分もいる。



代わりに得たもの

一方、ポケモンをプレイすることにより、社会的成功を犠牲にして私が得たものは、精神の自由だ。


先述したように、私にとって、ポケモンは最高の遊びだった。


ポケモンをプレイすることにより、私は現実とは全く別の世界で、強力なポケモンたちと冒険し、悪の組織を打倒し、世界の頂点に立つことができる。現実のように他人と勉強の成績や運動能力や容姿を比較されることはない。私はゲームの中ではオンリーワンでナンバーワンの主人公なのだ。それが嬉しかった。


また、現実とは全く別の世界であること自体も重要な点だ。私は自分自身が評価されることの息苦しさだけでなく、社会自体が抱える息苦しさにもうんざりしていた。保育園時代とは違い、もはや現実世界が幸福に満ちているとは思わなくなっていた。バブルがはじけ、宗教団体によるテロが起き、地球温暖化問題が叫ばれ、世紀末特有の重苦しい空気に覆われ――幼い私の目から見ても、当時の社会は明るいとは言えなかった。

しかし、ポケモンの世界はそうではない。「ロケット団」という悪の組織が暗躍していて、ときどきダークな一面が垣間見えるものの、人々は生活には特に困っておらず、かなり危険だけどかわいくて頼りになる生き物と共存している。そしてロケット団も主人公=私の活躍により、最終的には表向きの活動を停止する。まあ、悪く言えば極端に単純化された世界だ。だからこそ、現実世界が複雑怪奇な問題を抱えていると認識した時、あの世界は一層魅力的に見えた。


さらに、「白馬の王子様」ばかりを幸せの形だと思っていた私にとって、自ら戦い、運命を切り開いていくことの楽しさは衝だった。

もちろん、幼い子供向けの小説やアニメなどでも自ら戦う主人公なんて腐るほどいるから、そこから楽しさを読み取ればよかったのかもしれない。しかし、それらのコンテンツでは、主人公は私の意思に関係なく動き回る。つまり主人公≠私と思えてならず、どうにも実感が湧かなかった。

翻って、ゲーム『ポケモン』で主人公を動かし、ポケモンを育て、悪の組織と戦うのは私自身だ。受け身ではなく自分から幸せを探しにいくこともできると、私はポケモンを通じて悟った。「所詮ゲームはゲーム、決められた道を自分で動いていると錯覚させられているだけ」とツッコミを入れる人も中にはいるだろうが、そのような「錯覚」を私は決して無意味だとは思わない。何を通じてであれ自己肯定感を養うことは大切だ。


このように、私はポケモンによって、空想の世界へ思いを馳せて現実世界の雑事から一時解放される自由を持つこと、また自主的に行動することの面白さを教わった。



女の子は冒険にお呼びではない?

若干本筋からは外れるが、もう1つ、この時点で後の人生に大きな影響が出たことを話しておきたい。


ポケモンは「金」「銀」までプレイヤーキャラクターが男性に限られていた。

別にイケメンとの恋愛を期待してはいなかったけれども、女性主人公でないのはモヤッとした。でも同時に「男の子にはこういうワクワクするような冒険が許されているけど、女の子はそうじゃないんだろうな」と私は考えた。「やっぱり、女の子は綺麗に着飾って白馬の王子様を待っているべきなのだろう」とも。


それが、私を長いこと抑圧する呪いを生み出す原因のひとつになった。「こんなふうに自由が許されている男の子に生まれたかった」「でも自分は女の子なのだから、可愛くしおらしく生きることしか許されないのでは?」と、2つの思いの狭間で苦しむきっかけのひとつとなったのだ。

当時の私に「ジェンダー」という概念があるはずもなく、私はごく最近まで、ただただ女性に生まれた自分の運命を恨み続ける羽目になった。

無論、ポケモンだけが原因でないことは強調しておきたい。当時の社会は男性と女性の役割を明確に規定するような雰囲気がまだ極めて濃かった(今もわりと無意識にそんな感じかもしれない)。さらに、それ以外の私自身の多種多様なコンプレックスもこの呪いに大きく関与している。

この呪いはこれ以降の話にも若干影を落としているが、今回の記事の本筋ではない。『おそ松さん』を語る記事で詳述しようと考えている。




強化の第2世代「ジョウト地方

前述の通り、第1作目「赤」「緑」「ピカチュウ」「青」を通してすっかり『ポケモン』のファンになった私は、次に発売された第2作目、「ジョウト地方」を舞台とするソフト「」「」「クリスタル」も全て購入、全てクリアした。


これらの作品は、まず、前作のその後が描かれたのが印象的だった。敵は前作主人公に痛手を負わされたロケット団であり、3年後のカントー地方も冒険することができる。前作から続けてプレイしていたファンは感動を禁じ得なかっただろう。

また、私はこれらの作品の中で1匹のポケモンに一目惚れした。前作でも色々なポケモンと旅をして、そのどれもを大切な仲間だと思っていたが、ビジュアルだけで心を掴まれたのは初めてだった。描画が綺麗になったのと、明らかに可愛らしさを意識したデザインのポケモンが多くなったからだと思う。ちなみにそのポケモンチコリータという。

今でもポケモンの中で一番好きだ。本当に可愛いので、あなたもポケモンをプレイする際はぜひ仲間にしてみてほしい。

加えて、「クリスタル」では女性主人公を選べるようになったことが画期的だ。見た目が変わるだけではあるけれども十分だった。女の子もポケモンのゲームで堂々と遊んでいいと分かって嬉しかった。以降、ポケモンほとんどの作品で性別を選べるようになる。この点を私は今でも高く評価している。小説、漫画、アニメなどのコンテンツ、およびほとんどのゲームでは主人公の性別が固定されていて、こちらの気も知らず勝手に恋愛を始めたりする。もちろん自分とは立場の異なる他者に感情移入するのも面白いが、やはり私自身がその世界の一員となり、活躍していると思えるのが一番楽しいのである。



創作活動の萌芽

「クリスタル」をクリアしてしばらく経った小学3年生の頃、小説家を志すことに決めた。なぜかは残念ながら記憶にない。

私はゲームが一番好きだったが、小説もそれなりに読んでいた。だからたぶん、「自分もこんな素敵な話を作ってみんなを楽しませたい。ゲームを作るのは無理だが小説ならなんとかいけそうだ」などと考えたのだと思う。

初期に書いていたのは「白馬の王子様」的な話ばかりだった。ポケモンを通して自主自立の精神を学びつつあったとはいえど、この頃はまだ小説の中の主人公=私の理想像は「能力のある男性に助けてもらえる美しくかよわい女性」に大きく振り切れていた。

しかしいつからか、それは「男性に振り回されない強く賢く美しい女性」もしくは「従来の『男性』らしくない、心優しく芯の強い男性」に塗り替えられていく。その理由もやはりはっきりとは覚えていないが、ポケモンで女性主人公を操作できたことは間違いなくこの変化に寄与している。




変化の第3世代「ホウエン地方

2003年から2004年にかけて発売された第3作目、「ホウエン地方」を舞台とするソフト「ルビー」「サファイア」「エメラルド」は、2作目までの雰囲気とは異なり、よりポケモンに多様な面からスポットライトを当てた物語になった。


第2作目まで、戦闘は必ず1対1で行っていたが、この作品からは2対2でも戦わせるようになった。これにより、1対1での戦闘とは異なる戦術も考える必要が生じ、育成や戦闘の深みが増した。

また、ポケモンは戦わせるだけではなく、立ち居振る舞いで人々を魅了する「コンテスト」に出場させることもできるようになった。戦闘では役に立つステータスや技も、コンテストでは評価されないことが多い。挑戦するのであれば、戦闘のときとは別の戦術を編み出さなければならない。

さらに、この作品の敵役となるのは「マグマ団」か「アクア団」。世界の「陸を増やす」あるいは「海を増やす」ことを目的に、天候や地形を変えられる伝説のポケモンを目覚めさせようとしている、かなり宗教じみた組織だ。前作までの敵のロケット団は金儲け目的でポケモンを悪用していたため、全く毛色の異なる敵と対峙することになった。


特に私が心惹かれたのは3点目である。第2作目までは、人間がポケモンを悪用し、人間社会を混乱に陥れるさまが描かれてきた。しかしこの3作目では、狂信的なマグマ団/アクア団が意図せず伝説のポケモンを暴走させてしまい、危うく世界全体が滅びかける。より壮大で冒険しがいのある世界観になったと感じ、私はポケモンに一層没頭した。



二次創作の道へ

私は第3作目で広がりを見せた世界観に興奮し、いわゆる二次創作に本格的に進出した。


二次創作とは

二次創作とは、既存のコンテンツのファンが、そのコンテンツのストーリーやキャラクターを使って新しいストーリーやグッズなどを作る行為のことだ。オリジナルの著作物(一次創作)を拝借して作るから二次創作と呼ばれる。現行の著作権法的にはきわめてブラックに近いグレーに属する行為だが、オリジナルコンテンツの人気を下支えするファン活動のひとつとなっている。


私のポケモン二次創作の傾向

私がポケモンの二次創作の舞台に選んだのは、ほとんどが自分の考えたオリジナルの地方、あるいは現実世界だった。また、人間キャラクターも全て自分のオリジナルだ。

なぜ既存の舞台と人間キャラを使わなかったのか?

第一に、ポケモン』の主役はあくまでポケモンであるからだ。ゲームのストーリーは面白かったが、そこに想像を差し挟む余地はないように思えた。であれば、主役であるポケモンだけ残して、舞台と人間キャラをすげ替えればいいではないか?

第二に、私にはある程度オリジナリティのある物語を書きたいという願望があった。前述のように舞台と人間キャラが違っていてもポケモンという柱さえしっかりしていれば話は成り立つ。私は、主人公=私が、私の好きな世界で私の好きなポケモンたちと冒険を繰り広げる物語を作りたかった。

このように、私はあえてポケモン』の「ポケモン」キャラだけを残して自分好みの物語を作ることに情熱を傾けたし、それが当時のポケモン二次創作界隈における主流だったように思う。


二次創作という活動への気づき

私は小説家を志し始めたときから常にアイディアに飢えていた。何か面白い話を妄想したい、書きたいと渇望しているのに、想像力が貧弱すぎて何も思い浮かばないのだ。

その点、二次創作は、妄想することも、それを文章にすることも容易だ。ベースとなるストーリーやキャラクターが原者の手によってしっかりできあがっているため、それらを手がかりにして想像を広げていけるのだから。

しかも、もしきちんとした物語に仕上げようと思えば、ベースがあるとはいえどすさまじい努力が必要になる。結果的に、オリジナルの作品を執筆するための力もつくのではないだろうか。

ポケモンの二次創作を通じてそのような悟りを得た私は、以後、オリジナルの作品の執筆を小説家志望としての第一の目標としつつ、二次創作の作品も自分の願望に従い躊躇なく書くようになった。ポケモンをきっかけにして、広く深い二次創作の世界へと足を踏み入れることになったのである。


なお、誰も聞いていないだろうが一応お伝えしておくと、私はいかなるジャンルの二次創作であろうと、「赤城みみる」名義で発表する予定は一切ない。




恍惚の第4世代「シンオウ地方

第4作目、「シンオウ地方」を舞台とする「ダイヤモンド」「パール」「プラチナ」が発売されたのは、2006年から2008年のこと。ちょうど私が中学生から高校生の時期だ。

この頃が、私のポケモン熱のピークだった。


第4作目は、モデルになった地域が北海道、アイヌの土地であるためか、数多くの神秘的な伝承に彩られている。これらの伝承により、ポケモンの世界観は3作目にもまして大きく広がった

伝承のうちのいくつかは、アイヌの民話を元ネタに過去の人間とポケモンの関係性について語っている。人間もポケモンも大昔からずっと現代と同じように暮らしていたわけではなく、昔は違う生活の仕方、違う価値観を持っていたこと、そして今では失われた文化になってしまったことが示された。これにより、ポケモンの世界に明確な過去の歴史が確立され、ストーリーに一層の深みが出た

また、他のいくつかの伝承は、ポケモンの世界がどのようにできあがったかをほのめかしている。創世神話というやつだ。さらに創世に関わったポケモンたちとも出会い、捕獲することができる。これがいかに私の厨二心を刺激したか、同志の方になら分かっていただけるのではないだろうか。

そして、今回の悪の組織「ギンガ団」の目的は、時空を操る能力を持つポケモン支配下に置き、世界を作り変えることだ。3作目以上にヤバいやつだ。そんなヤバい敵を止めるためにポケモンと一緒に冒険できるなんて、とてもワクワクした。


ちなみに私はここ10年くらい創世神話その他を元ネタに大長編の二次創作を構想している。執筆は遅々として進まないがすごく楽しい。



神話・歴史の魅力を理解する

第4作目をプレイし、二次創作をひねり出す過程で、神話や歴史は創作ネタの宝庫であり、それ自体の内容も非常に奥が深く面白いと気づいた。この頃まで、現実世界やゲーム、小説などから得られる限られた情報と自分の貧弱な想像力しか頼るもののなかった私は、現実の人類の過去を知ることに魅せられた。ただし、前述の通りコツコツと勉強する能力が一切ないため、中途半端に雑学的な知識を仕入れるだけに留まり、真に教養として身につけるには程遠かったが。

なお、神話や歴史を意識するようになったのは、この第4作目とともに漫画『封神演義』の影響も大きいと思われる。これについては、『封神演義』の記事で詳述したい。



疎外感を強める

この頃になると、私の周りにはポケモンをプレイし続ける人はほとんどいなくなっていた。第3作目くらいまではたくさんの仲間がいたのに、中学生、高校生ともなると、皆勉強や部活や恋愛といった現実世界の問題に注力し始めたのだ。そして、一般的に「低俗」と見なされるコンテンツや自分だけの空想の世界に耽溺している者は、嘲笑されるかいじめられるか、少なくとも一歩引いたところから面白がられた。


私の場合、表面的な勉強だけはよくできたので、いじめられることはさほど多くなかった(全くいじめられなかったとは言えない)。学校では勉強ができることが一種の免罪符になる。しかし「あの子変人だよね」と遠巻きにされることは防げなかった。

私は「変人」という称号を気に入り、あえて変人性を全面に押し出していくスタイルで中学高校時代を過ごした。具体的にうと、ポケモンは脇目も振らずプレイし続けたし、オリジナルの小説であれ二次小説であれ、書きたいと思えば人目を気にせず書いた。だが同時に、「普通の人」と同じような青春を満喫したい、そしてできれば皆に羨ましがられるような人生を送りたいという願望もひっそりと強くなっていった。

その相反する2つの志向は、巡り巡って今、自分の人生にコレジャナイ感を持つ原因にもなっている。このあたりも『封神演義』の影響が大きいので、そちらの記事で詳しく書きたいと考えている。




失意の第5世代以降

先ほど、第4作目が私のポケモン熱のピークだったと述べた。それは残念ながら真実である。第5作目以降のシリーズ本編に関して、私はファンとして全て購入してプレイしたけれども、4作目までのような情熱を保つことはできなかった。


理由は2つある。



リアル・非リアルの忙しさ

1つ目の理由は、単純に忙しくなったからだ。


第5作目の「ブラック」「ホワイト」が発売された頃、私はちょうど大学生で、愚かしいことにリア充を目指して躍起になり始めていた。その無理ゲーなリア充化計画は実はつい最近まで継続していた。このあたりはまた『おそ松さん』の記事で書こうと思う。


くだらない計画の合間にでも楽しめばよかったのではと思われたかもしれないが、気づけば私にはポケモン以外にも好きなコンテンツがたくさんできていた

読書は小さい頃から好きだった。中学生になってから『封神演義』を皮切りに漫画も読み始めた。お小遣いやバイト代を貯めて他のゲームタイトルも購入した。社会人になると歴史好きが高じて旅行にも頻繁に出かけるようになり、『おそ松さん』を端緒についにアニメも守備範囲に入った。

いつの頃からか理解していた。私はひとつの物事に全精力を注いで生きていける人間ではないと。興味があっちこっちに飛びがちで落ち着きがなく、昨日これが好きと言ったかと思えば今日はそれが欲しいとがなり立てる人間であると。

私が過去、ポケモンにあれだけ集中していられたのは、ポケモンしか知らなかったからだ。嫁が増えれば、悲しいことに、それだけひとつひとつにかける時間は少なくなる。



ストーリーの路線変更

2つ目の理由は、ストーリーに以前ほどの魅力を感じなくなったからだ。

なんというか、ポケモンではなく、人間キャラの個性ばかりが目立っているように思ってしまったのである。


何度も言っているように、ゲーム『ポケモン』の主役は「ポケモンだと私は考えている。より正確に表現すると、ポケモンのストーリーで主眼置かれるべきと私が思うのは、「主人公=私とポケモンたちが繰り広げるワクワクするような冒険」だ。

もちろん他の人間キャラと絡まなければポケモンも活躍できないから、人間キャラが魅力的であるに越したことはない。しかし、第5作目以降は人間キャラの個性が強すぎて、本来「主人公対ポケモン」に割り振られるべきプレイヤーの興味を人間キャラが完全に奪い、「主人公対人間キャラ」になっているように思える。

例えば第5作目、「イッシュ地方」を舞台とするソフト「ブラック」「ホワイト」は、ポケモンを人間の支配から解放することを訴える怪しげな組織「プラズマ団」との戦いが主軸となる。

このストーリーで中心的な役割を果たすのが"N"という名の青年だ。彼は作中のさまざまな場所で主人公の前に現れ、戦闘を仕掛け、哲学的な問いかけをしてくる。ストーリーを進めるうち、主人公は彼の悲惨な過去を知り、彼の野望(?)を食い止めるために対峙することになる。

また、「ブラック」「ホワイト」には、主人公と同時期に修行に出る子供が2人いる。彼らにはポケモントレーナーとして未熟な部分があり、旅の途上で主人公と関わることによってその弱点を徐々に克服していく。

いやいや。別に人間キャラのことなんざ深く知りたくないよ。と私は思ってしまう。ストーリーとしてはままあ面白かったし彼ら3人は魅力的だが、それだけだ。私の冒険心を沸き立たせ、想像力(妄想力)を掻き立ててくれるものではない。

第6作目以降も同じような傾向が続く。同郷の仲間だったり、ピンチから救ってあげた少女だったりが目立って、どうもあまり主人公=私とポケモンの物語という感じがしない


もちろん、これは私個人の勝手な感想だ。細かいストーリーは忘れてしまい印象だけで語っているから、思い出補正で第4作までが殊更美化されているだけかもしれない。

それに、ポケモンは何もストーリーを追うことだけが楽しいわけではない。通信機能を使って他のプレイヤーとポケモンを交換したり、戦わせたりすることもできる。これこそが楽しみでプレイしているファンも多いようだ。

だから、ファンを代表して最近のポケモンを批判しようなんて気はさらさらない。ただ、私が本当にのめり込んでいたポケモンは今のところ第4作目までだとだけお伝えしておきたい。




まとめ

ゲーム『ポケットモンスター』は、良い意味でも悪い意味でも、私の人生の大きな歯車になっている。

私はポケモンを通して、TVゲームという娯楽の面白さを知った。加えて、空想の世界へ思いを馳せることや、受け身ではなく自主的に行動することの意義深さも学んだ。それらは私の創作活動への意欲を促進させ、やがては二次創作の世界に身を投じることにもつながっていく。また私は、ポケモンが作品を重ねる毎にその世界観を深めていくさまを目の当たりにし、現実の歴史を知ることの楽しさにも目覚めた。

一方で、ポケモンは私の社会的成功を間接的に妨げ、女性嫌悪ミソジニー)を生じさせるきっかけとなった。さらに、年齢が上がるにつれ自分の「低俗な」趣味について語り合える仲間が少なくなったことは、私に大きな疎外感をもたらした。


実際には、私の人生において生じたこれらの変化を全てポケモンのおかげ、ポケモンのせいだと一概に論じることはあまりに危うい。ポケモン以外にもさまざまな要因が関わっていると思われるからだ。

また、ポケモン「だからこそ」このように人格形成に大幅に作用した、したがってポケモンは素晴らしいから絶対にプレイすべきだ/恐ろしいからプレイしない方がよい、などと吹聴するつもりもない。もし私がポケモンよりもセーラームーンに夢中になっていたら、私の人生を変えたのはセーラームーンということになっていただろうし、ポケモンよりも先にドラクエに出会っていたら、ドラクエを人生の師と仰いでいたかもしれない。

本記事は、あくまで私という人間を大まかに振り返るためのものであり、そのための触媒として、私がたまたま最も大きな影響を受けたゲーム『ポケモン』を主軸に据えたに過ぎない。


そもそも、この「スキあらば自分語り」などという自己主張も甚だしいシリーズ記事を書こうと思ったのは、ひとつには、私がそろそろ人生の折り返し地点に到達するからである。私は不養生がたたって60歳くらいで死亡すると思っている。だから、だいたい30歳前後の今の時期に人生を振り返っておけば、のちのち何かの役に立ったり、こんなくだらないことを書いていたのかと爆笑したりできるのではないかと考えた。

もうひとつは、もし私と部分的にでも似たような人生を歩んでいる方がいたら励みになるだろうと考えたからである。その方の抱えている悩みを私が解決できるなどといった尊大な自信があるわけではない。生きづらさを抱えて悩んでいるのはあなただけではない、きっとどこかには私のようなひねくれた同胞がいることを信じてほしいのだ。それは裏返せば私自身の願望でもある。私は、この広大な現実世界のどこかに、私の嗜好を、価値観を、人生を、理解し、共感してくださる方がいることを願い、まるでンに入れた手紙を無人島の浜辺から海に流すような気持ちで、この文章を書いた。


次回は封神演義』に人生狂わされた話を書く予定だ。興味があったら読んでいただければ幸いである。