星を匿す雲

主にTVゲーム、漫画、小説、史跡巡りの感想を書いているブログです。基本的に【ネタバレあり】ですのでご注意ください。

【スキあらば自分語り②】封神演義に人生狂わされた話

ある程度年齢を重ねた人ならば必ず、自らの人生に決定的な影響を与えた物事があるだろう。それは、誰かとの出会いだったり、1冊の本だったり、旅先の景色だったりするかもしれない。

私にとって、それは常にサブカルチャーであった。より具体的に言うと、ゲーム、漫画、アニメだ。一昔前の「常識的」な大人たちから見れば低俗極まりないとされたこれらのコンテンツを、私は愛し、同時に憎んできた。

中でも、私を今、ここに導いたコンテンツは3つ。ゲーム『ポケットモンスター』、漫画『封神演義』、アニメ『おそ松さん』である。

私の人生は、『ポケモン』で始まり、『封神演義』に狂わされ、『おそ松さん』に救われた。

これからお伝えするのは、そのうちの2つ目。封神演義』に人生狂わされた話である。




『小学○年生』に支配された小学生時代

小学生の頃、私は小学館の発行している月刊雑誌『小学○年生』シリーズを愛読していた。

小学1年生の4月からずっと、両親が毎月必ず購入してくれていたからだ。それ以外の漫画は、アニメの影響で購入した『名探偵コナン』とその関連作品くらいしか読んでいなかった。

両親は私がTVゲームや漫画、アニメに熱中することにいい顔をしなかった。思考力を養うためには読書をするのが一番だと考えていたらしい。だから、ゲームは1日1時間しかプレイせず(実際は隠れてもう少しプレイしていたが)、漫画はわずかなものしか読まず、アニメにもさして興味を示さず、その退屈を埋めるように小説を読んでばかりいる私の姿は、さぞ両親を安心させたことだろう。

私は彼らの判断は正しかったと思う。なにぶん努力することが大嫌いで楽な方へと流されてしまう性分だから、最初からTVゲーム、漫画、アニメを好き放題に見ていたら、私は今頃間違いなく引きこもりニートになっていただろう。


『小学○年生』シリーズの悪影響

唐突に話題がずれるが、『小学○年生』シリーズが私に及ぼした影響についてここで言及しておきたい。ご興味のない方は次の項へ飛ぶことをおすすめする。


『小学○年生』には、小学生のための総合情報誌のような面があった。漫画や人気のおもちゃの宣伝だけでなく、子供の想像力や空間把握力を鍛えてくれそうな付録、小学校レベルの学習を手助けしてくれる易しい科学系の記事、高学年になると性教育の特集まで掲載されていた。両親は、この雑誌シリーズが単なる娯楽の提供だけで終わらないことをそれなりに評価していたのだろうし、私も読んでいたおかげで自分の知能や道徳観がいくらかマシなものになったと自覚している。

しかし、同時に、私が購読していた当時の『小学○年生』の誌面では、女の子向けのファッション特集や恋愛特集も盛んに組まれていた。それらの特集や、掲載されている少女漫画から漏れ出す「女の子はおしゃれにならなきゃ!」「恋をしなきゃ!」というメッセージは私にとって猛毒だった。大して興味・関心がないので読み飛ばしていたし、「私は私だから、気にしなくていいんだ」とも思っていた。だが心のどこかでは、「でも、私も本当はこういう特集に興味を持たないといけないのだろう。私は間違った生き方をしているのだ」と罪悪感を覚えてもいた。

それが、私を長年縛り付けた(そして今も若干縛り付けている)いわゆる「女性らしさ」の呪いの数ある原因のうちのひとつとなった。これについては、『おそ松さん』の記事で詳しく言及したい。




封神演義』と出会った中学生時代

さて、中学生になると、親は『小学○年生』を買ってくれなくなった。代わりに、もらえる小遣いが少し増えた。私はその大部分を小説につぎこんだ(この頃はゲームにものめり込んでいたが、ゲームは高価なので、大抵、誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントとして購入してもらっていた)。また、中学校の図書館にも入り浸った。同年代の生徒たちと比べれば、かなり読書している方だっただろう。


しかし、『小学○年生』で染みついた漫画を読む習慣がなくなってしまったのが寂しくて、私は無意識に、その習慣を復活させてくれそうな漫画を探していた。

そんな折、地元の本屋の少年漫画スペースで見つけたのが、藤崎竜先生の漫画『封神演義』であった。



藤崎竜の漫画『封神演義』とは?

ご存知ない方のために簡単に説明しよう。


封神演義』は、もとは中国の明代に著された小説だ。中国の殷周時代を舞台に、人間にあだなす妖怪と人間を守ろうとする仙人・道士(仙人見習い)の戦争を描いた物語である。ファンタジーの要素が強く、「宝貝」と呼ばれる特殊な力を備えた道具で戦ったり、しばしば神様が出てきたりする。

この原作は、数えきれないほどたくさんの個性的な登場人物が出演するのが魅力だが、物語としてはさほど秀逸ではない。主人公とされている「太公望」の活躍があまりに希薄であるし、唐突でまとまりのない展開が多すぎるのだ。


その明代の小説『封神演義』を小説家の安能勉先生が翻案・改変して日本語の小説『封神演義』を書いた。それをさらに改変して描かれたのが、藤崎竜先生の漫画『封神演義』(少年ジャンプにて1996年~2000年まで連載)である。


漫画『封神演義』の筋書きは、だいたい以下の通りだ。

主人公の道士「太公望」は、殷国の王妃であり実は妖怪でもある「蘇妲己」の横暴を止めるため、彼女と彼女の配下の妖怪たちを倒す役目を仙人の長の一人から与えられる。

そこで問題となるのが、太公望の戦闘能力が低いことである。彼は代わりに頭脳戦を得意としており、人間や仙人の仲間たちに指示を出して戦ってもらうことで、主に軍師として活躍する。彼は数々の挫折と悲劇を乗り越えながら味方を増やしていき、やがて傾ききった殷国の代わりに新たな王朝を樹立させることを決意する。



漫画『封神演義』の衝撃

私は小学生の頃に、おおもとの原作(明代の小説『封神演義』)を先に読んでいた。佐竹美保の挿し絵を使っているものだ。

私は太公望らしい人物が不敵な笑みを浮かべている漫画『封神演義』1巻の表紙を手に取って考えた――自分が既によく知っている物語、それも曲がりなりにも中国の古典とされている物語が題材になっているのであれば、退屈な王道展開ばかりのファンタジーものや恋愛ものを読むよりは充実感を得られるだろうと。それに、あのハチャメチャな話がいったいどのように少年漫画として色付けされて描かれているか、興味を持った。


その魅力

いざ1巻~4巻あたりまでの単行本を買って読んでみて、私は大きな衝撃を受けた。原作のエッセンスを確かに受け継いでいながら、原作よりも遥かに面白い

前述の通り、原作では主人公である太公望の存在感が非常に希薄だ。生真面目で努力家だが、強い味方や敵にほとんどの見せ場を奪われるし、プロフィール的にも70歳過ぎの白ヒゲをもっさり生やした妻帯者のおじいさんなので全く親近感が湧かない。ところが、漫画『封神演義』の太公望は、原作同様、見せ場を取られることは多いものの、きちんと軍師としての役割を果たして存在感を発揮している。さらに、原作とは異なり、怠け者かつ狡い性格で(もちろん少年漫画の主人公らしく情に厚い一面も密かに持ち合わせている)、20代前半くらいの見た目(仙人になると「不老」不死になるという設定)のため親しみやすい。

また、原作の唐突で理不尽に感じられる物語展開が、漫画『封神演義』では徹底的に組み立て直され、大幅に脚色され、ひとつひとつの出来事、ひとりひとりの登場人物にしっかりと意義づけがなされている。原作の奇想天外で華やかな雰囲気は残しながらも、手に汗握る少年漫画に昇華されている。

さらに、漫画『封神演義』は、ただ原作を組み立て直し脚色しているだけではない。作者である藤崎竜先生独自の設定が大胆に、ふんだんに織り込まれている。ネタバレになってしまうので詳述は控えるが、この設定は私のツボをクリティカルヒットした。

私は本屋に行くたび、小遣いをはたいて単行本を買い込むようになった。巻を追うごとに物語はさらに白熱していった。純粋に、読むのがとても楽しかった。それに、小説家志望としてはいたく感心させられた。こんなふうに歴史ある古典を大胆に解釈し直してより面白い話を作ることもできるのだな、と。


歴史・神話と歴史漫画への傾倒

封神演義』のように、歴史や神話を独自の設定で再構成するという物語の作り方に私は魅せられた。当時傾倒していた二次創作と似たものを感じたのだ。どちらも元となる素材があり、そこに作者が大胆に手を加えて作る。元となる素材も十分面白いのに、そのうえ作者の個性的な味付けが加わるのだから、二重の楽しさがある。

ポケモン』の影響もあり、私はそれ以降、世界各地の歴史や神話に興味を持つようになった。さらにそれらを題材にした歴史漫画も積極的に読むようになった。純粋な楽しみのため、また自分の小説執筆の参考のためだ。代表的なものとしては、『ベルサイユのばら』や『天上の虹』が挙げられる。

ただし、何事においても努力のできない人間なので、歴史・神話の知識や歴史漫画の含蓄も未だ素人レベルに留まっている。歴史「小説」に大して手を出していないのも、「読むのめんどくさい」と思ってしまう自堕落な性格が原因である。

このブログでは歴史漫画の紹介記事も書いているので、ご興味があったらぜひお読みいただきたい。上述の通り知識がないため紹介文は薄っぺらいが、紹介している漫画自体はどれも面白い。



補足:連載時期と私が本屋で購入した時期のズレについて

『ポケモン』の記事を読んだ方は、もしかしたら中学生の私が『封神演義』の単行本を本屋で購入しているのは不自然であることに気づかれたかもしれない。ここで簡潔に補足しておきたい。

封神演義』の連載が終わったのは2000年。ところが、実は私が本屋でその単行本を見つけたのはそれから数年後だった。

私には、なぜ連載後数年が経過してもなお『封神演義』の単行本がその本屋に置かれていたのか見当がつかない。古本屋ではなく、新品を置いている本屋だった。人気があったから置き続けたのか、在庫を処理したかったのか、単にスペースが余っていたのか、真相は不明だ。




変わっていく私、遠ざかる楽園

私は『封神演義』に出会う前まで、非常にぼんやりとした生き方をしている人間だった。

私が受け身でミーハーで夢見がちな女の子であったことは既に『ポケモン』の記事で述べた。『ポケモン』を通して自主的に行動して何かを得ることの意義深さは学んだものの、私は依然として、暇さえあればゆっくり夢想に耽るのが好きだった。偉い人になりたいとか、金持ちになりたいとか、みんなに注目されたいとか、そんな野望はなかった。叶うことならば、ずっと自分や他の人の作った夢の世界をたゆたっていたかった

そんなわけだから、学校の成績は良かったものの、将来の目標も極めて曖昧だった。私は高校に進学することさえ全く考えていなかった。大学や、その先の社会人としての生活など微塵も意識していなかった。私はただ、このまま穏やかに毎日が過ぎていくのだろうと思っていた。このひなびた故郷で、誰かと結婚し、子供を産み育て、いつか小説家として少しは名を馳せるようになり、のんびりとした一生を過ごすのだろうと。



コペルニクス的転回

ところが、『封神演義』を読み進めるうちに、私はコペルニクス的転回を起こした。歴史に興味を持ったこと以外にも、私の中にさまざまな変化がもたらされたのである。


「筋道立てて考える」という行為の始まり

私は『封神演義』を読んで初めて「筋道立てて考える」という行為のなんたるかを悟った。

それまでは、学校の勉強にはただなんとなく取り組んでいただけだった。『ポケモン』では相手のポケモンよりもレベルを上げる、強力な技を使うなどの単純な力押しで戦っていた。私が見ていたコンテンツには複雑な罠やトリックをメインに据えたものはなかった(あるいは意味が分からず受け流していた)。『名探偵コナン』は推理物の漫画だが、トリックなどそっちのけで、コナンと蘭のすれ違いや殺人事件の容疑者たちの人間模様を楽しみにしていた。私にとって大切だったのは謎を解くことではなく、いかにワクワク、ドキドキ、ハラハラといった感情を胸の内に生じさせるかであった。

しかし、『封神演義』を読むことで、その価値観は覆されることになった。

前述の通り、『封神演義』の主人公の太公望は戦闘能力の低さを補うため、さまざまな策を弄して敵と戦う。敵である蘇妲己とその仲間たちも、彼にふさわしくトリッキーな者が多い。物語にも、またひとつひとつの戦いにも、多くの伏線が散りばめられており、それらが絶好のタイミングで回収され、勝敗を左右する。アクションものでありながら頭脳戦に重きが置かれているのだ。「あのときのあれにはこういう意味もあったの!?」というアハ体験は、ワクワク、ドキドキ、ハラハラと同じくらい面白かった。「筋道立てて考える」とこのような面白さも味わえるのか、と私は思った。

それ以来、なんらかの物事に出会うたび、私はそれをただ漠然と受け止めるのではなく、その背景や仕組みを推測するようになった。実際に背景や仕組みを調べるところまでは滅多に到達しなかった。「筋道立てて考える」という行為は私にとってあくまで空想の延長線上にあるものに過ぎなかった。だが、それゆえに私はその行為を楽しむようになった。

些細なことでも推測や理由付けをするこの習慣が思考力と理解力を養ったのだろう。私の学校の成績は飛躍的に向上した。それまでは地元の進学校に入学できるかできないかのボーダーラインだったのが、一気に合格圏内に躍り出た。両親は、私の学校の成績が上がったことをひどく喜んだ。彼らは私に母と同じ地元の進学校に入学することを勧めた。私は自分がこの社会では評価されやすい能力を持っていることをようやく自覚した。


コンプレックスを克服するためにヒーローになりたい

封神演義』の主人公の太公望は、戦闘能力ではなく頭脳で古代中国の人々を救う。その姿は、運動神経が悪く、体育が万年苦手科目だった私に希望、いや、野望を与えた。パワー型の主人公がはびこりがちな空想の世界でさえ、頭脳派の主人公が活躍できるのだ。腕力など必要ない現実ならばなおのこと、もっと頭が良くなれば、「ひ弱」で「ブス」な「女」の私でも、かっこいいヒーローになれるかもしれない。そうすれば、大手を振ってこの世界で生きていけるかもしれない。

私は幼い頃から小さないじめを受けていた。「ブス」とか「キモい」とか「暗い」とか、今となってはなんら具体性のないつまらない文句だ。いじめてくる者よりも支えてくれる人たちの方が多かったので表面上はさほど気にせずに済んだ。しかし、それらの言葉は知らないうちに私の精神に大きな影を落としていたらしく、私の自己像は歪んでいた。ヒーローになりたいと考えたこのとき、私はその歪みを治すのではなく、頭の良さという武器で糊塗することを選んだのである。


母という強大なロールモデル

ヒーローになるための究極的なロールモデルはもちろん太公望だ。しかし、私には身近なところに、より現実的で強大なロールモデルがいた。である。

母は、私から見て、社会で輝かしく活躍するために必要と思われる能力と社会的ステータスをほぼ完璧に持ち合わせていた。頭が切れ、口が達者で、努力家で、積極的で、リーダーシップがあり、情が深い。貧しい家に生まれたが、地元の進学校を卒業して首都圏の大学に進学、地元に戻って公務員になった。彼女は確固たる目標を持って公務員の仕事に取り組んでおり、時々愚痴は言うけれども、仕事をすることを大いに楽しみ、成果も挙げていた。そんな母の周りにはいつも彼女を慕う人が大勢集まっていた。太公望とは比べ物にならないものの、彼女も社会の中で「小さなヒーロー」としての役割を担っていた。

私は、彼女とは似ても似つかない人間だった。「お勉強」はできるかもしれないけれども、口下手で怠け者で引っ込み思案で、リーダーを務めるといつも大失敗し、生身の人間への興味が薄く、例え誰かに興味を持っても嫌われるのが怖くて積極的に近づけない。コミュ力のお化けのような母と一緒に暮らしていたのになぜ彼女の気質を受け継がなかったのか? ダウナー系の父の影響が大きかったとか、一人っ子で甘やかされて育ったとか、友達を作りづらい環境だったとか、家庭にコミュ力お化けが一人いると色々と事足りてしまうので残りのメンバーはコミュ障になりがちとか、色々な理由が挙げられる。機会があれば詳しく論じたい。

だが、それではもうダメだ、と私は思った。ヒーローになるためには、母のようになる、いや、能力も社会的ステータスも母を超えなければいけないのだと。


空想は単なる現実逃避だ

さらに、現実の世界で活躍することを視野に入れると、空想の世界を楽しむのは時間の無駄遣いだとも私は思い始めた。なぜなら、空想とは現実逃避であり、現実逃避をしていても、現実で役に立つ事柄は何ひとつ学び取れないと思われたからだ。空想している暇があるなら、英単語のひとつ、数学の定理のひとつでも頭に叩き込んだ方が良い。そうでもしなければヒーローになれない。


願望、期待、見栄

私は両親に勧められるがまま、母の出身高校を目指すことになった。彼らの期待に応えるため、何より自分自身を満足させるために。

この頃はちょうど周囲が学校の成績を気にしだす時期であった。私は同級生と自分の成績を比較し、比較され、それとなく競い合った。私はこの中の誰よりも頭の良い人間になって、太公望や母のようなヒーローになって世の中の役に立ち、みんなから賞賛されたい、と強く願うようになった。



願望と相反する自制心の低さ

頭脳派のヒーローになりたいから空想の世界に逃げるのはやめようという思いと、学年上位を維持し続ける成績。それらとは裏腹に、私は勉強をしなかった。本当に、これでよくこの成績が維持できるなと自分で思うくらいしなかった。

勉強しなければいけないことは分かっているのだ、何せ私は誰よりも頭の良い人間になる必要があるのだから。いくら学校の成績が良くても、そこで慢心してはいけない。一冊でも本を読め、誰かと話せ、問題を解け。それがひ弱でブスな私のこの世に生まれた意味なのだ。

そう発破をかけても、私の心は頑なに勉強することを拒んだ。私はひたすら小説を読み、拙い文章を書き、ゲームをプレイし、漫画を読み、あてどない空想に耽っていた。

両親や周囲の人たちは、勉強しなくても成績が良いなんてすごい、などと私を褒め称えた。その賞賛に得意にならないわけではなかったし、一生懸命虚勢を張っていた。だが私の胸中は荒れ果てていた。

どうしてここまで自制心がないのか。どうして楽な方に流され、努力ができないのか。私は私自身に強く失望し続けた。こんなことではヒーローにはなれない。ウサギとカメの童話を思い出してみろ、最後に勝つのは母のようにコツコツ努力を重ねた方ではないか。今は良くても、近い将来きっとつまづく。頑張れ。もっと努力しろ。どうしていつも空想の世界に逃げる? 現実で教養として役立つ歴史や神話に親しむのは別として、それ以外のことに没頭しても無意味だ。分かりきっているのに。どうして。どうして。どうして……。


どんなに自分を責めても、私が努力家になる日は来なかった。そして当然の帰結として、つまづくときがやってきた。




挫折を知った高校生時代

私は母と同じ高校に進学した。相変わらず、勉強をほとんどしていなくても私の成績は良かった。体育と、いわゆる「理系科目」を除いては。

「理系科目」の方はというと、学年全体で単純に比較すれば決して悪くはないが、理系の大学や難関国公立大学の文系学部を目指すのであれば相当頑張らないといけないレベルだった。

実は、中学校の時点で数学には苦戦していた。基礎問題は解けるのに応用問題になった途端に手も足も出なかった。その分を文系科目の成績で補っていた状態だったのだ。高校生になると、その傾向が生物や化学などの理系科目全体に広がった。


このような事態に陥ったのは、もちろん勉強をしなかったせいもある。しかし、最も大きな原因は、理系科目の内容を理解するのに必要な論理的な思考力が足りないことであると私は分析した。

私は「筋道立てて考える」ことの重要性も楽しさも知っていたものの、それが得意なわけではなかった。ひとつの事柄を筋道立てて考えるにあたっては、推論や証拠を地道に積み重ねていくことが必要であるが、私は途中で些末な事柄が異様に気になって固執したり飽きて他のことをやり始めたりして、積み重ねを放棄してしまう傾向がある。だから、常に思考が浅い

この分析自体は的を射ていると今の私でも思う。だが、当時の私はそうなってしまった原因を考えたとき、誤った結論に達し、誤った方向に舵を切った。

私は、自分が典型的な女性感情的な人間だから論理的な思考ができないに違いないという結論に至ったのだ。



自分の感情的、女性的な部分を排斥したい

当時(今もだろうか?)は、以下のような謎の言説が一般に広く敷衍していたように思う。

  • 女性は「感情的」、男性は「論理的」な人が多い
  • 「感情的」な物言いは「頭が悪い」
  • 「感情」の対義語は「論理」であり、論理に優れている人の方が頭が良い

そのような風潮に流されて、私は、「多くの女性は感情的で頭の悪い生き物だ」「男性の方が論理的で、頭脳が優れている」と平気で考えていた。自分自身のことを、また、周囲の大切な人たちのことを。

この謎の言説に傾倒した私の顛末に関しては『おそ松さん』の記事で詳しく述べることにして、今はこの思い込みがこの時点の私にどのような影響を与えたかについて書く。


私は、自分に論理性がないのは自身が女性で感情的な人間だからだと考えた。それはすなわち、「頭が悪い」ことと同義である。「頭の良い」ヒーローになりたいのならば、私は「女性」「感情的」という属性を徹底的に否定して、男性のように論理的にならなければいけない。ハラハラドキドキワクワクしたいなんて思っている場合ではないのだ。感情はできる限り排斥して「筋道立てて考える」ことのみに集中しなければ、私がヒーローになる未来は閉ざされてしまう。

母も、感情豊かでお喋りな、悪く言えば口うるさい人間であった。それが、私の考える「小さなヒーロー」としての母の唯一の欠点だった。彼女を超えた頭脳派のヒーローになるためにも、私はその欠点を消し去らなければならないと思った。



「理系」の方が論理的で頭が良くて世の中の役に立つ、だから「理系」になりたい

ところで、現代社会で技術の進歩や社会の発展に役立っているのは「理系」の人々であり、「文系」は単なる役立たずである、という言説もまた当時の社会には浸透していたし、今もわりとその傾向は続いている。また、「理系」の方が論理性に優れており、「文系」は多分に感情的である、とも。

世の中の役に立ってみんなから認められたい私はその言説に大いに影響された。特に人文科学系の学問など、人類にとっていったいなんの役に立つというのだろう。単なる「感情的」な人々のための娯楽に過ぎないではないか。夢中になる人々がいるのは構わない、彼らはそれらに縋ることによってしか生きられないのだから。しかし私は彼らのようになるべきではない。


そして、これまた一部の人々が言うことには、文系科目は女性の方が得意、理系科目は男性の方が得意らしい。根拠もないくだらない妄想だが、私はそれを真に受けた。


その結果、私はこう考えた。「感情的」で「頭の悪い」女性を象徴する、社会の役に立たない「文系」よりも、「論理的」で「頭の良い」男性を象徴する、みんなの役に立つ「理系」になりたいと。当面のマイルストーンであるところの母も文系だったので、理系になることは、私が彼女を超えたことを示す分かりやすい指標にもなるように思えた。



劣等感、そして文転

ところが、理系になることを目標にしながらも、私は例によって空想の世界に耽溺し、全く勉強をしなかった。第1学年の終盤、第2学年からの文理分けのための個人面談で、「理系クラスに入るのはやめた方がいい」と担任の先生からは言われた。私は無理に押し通した。理系クラスに入ればさすがに勉強するようになるだろうと甘い目論見を抱いていた。自分にそんな精神力がないことは知っていたのに。

理系のクラスは、楽しかった。生物や物理、化学の授業で教わる自然界の法則や定理は、その成り立ち方に思いを馳せ、遠大な空想を広げるのにもってこいだった。クラスメートは皆、論理的で、頭が切れて、努力家で、それでいてちょっとお茶目なところもあった。話をしても、遠くから眺めるだけでも飽きなかった。ああ、この人たちは女性の中でも例外的に極めて優秀で、日本と世界の未来を担う人たちなのだな、と感心していた。

だが、私自身はというと、とても場違いだと思った。案の定、私の理系の成績は、勉強しないことと理解力がないのとで全く伸びず、私はいつも自分のクラスの平均点を著しく下げることに寄与していた。私には、生物の神秘や物理法則の不思議さに憧れることはできても、それをきっちりと筋道立てて理解することがどうしてもできなかった。トンビはタカにはなれない。私は、このクラスの友人たちのようにはなれない。私は所詮、感情的で頭の悪い、ごく普通の女でしかないのだ。友人たちと笑い合うその裏で、私は凄まじい劣等感と闘っていた。


第3学年になって、私は文転した。文系の難関大学に入学できる見込みはまだ十分にあったからだ。理系になれないのならば、せめて文系で高みに上り詰めたかった。私はこのときばかりはそれなりに勉強して、理系クラスにいた分の文系科目の遅れを取り戻し、無事にいくつかの大学に合格した。それらの大学は両親の出身大学よりも偏差値が高く、世間的な評判もとても良かった。私は、出身大学という一点においては母を超えたのだ。このときばかりは達成感に浮かれた。




闇堕ちした大学生時代

大学生時代の詳細は『おそ松さん』の記事で述べる予定だが、ここでも簡潔に書いておこう。


よく会社経営者などが誤解しているが、大学とは社会のためのソルジャーを懇切丁寧に育てる場ではなく、教養と高度な思考力を養う場自主的に学問に勤しむ場であり、さらに言えば、研究者養成機関としての役割がかなり大きい。そのような環境で勉学その他に勤しんだ結果として、一定数の人々が偶然ソルジャーたるに相応しい能力を養っているだけにすぎない。環境を与えられても努力できない人間はただ無為な数年間を過ごすだけだし、努力しすぎた結果かえって社会不適合者になってしまう人間もいる。

私は明らかに「無為な数年間を過ごした」人間だった。確かに私の「受験勉強」の成績はその大学に相応しかった。だが、私の「学問」に対する意欲と能力は、学問に熱心なことで有名なその大学から期待されているものよりも遥かに低かった。

私は大学生になっても、小説家になるとか理転して研究者になるとか言いながら、勉強を全くしなかった。相変わらずの空想への耽溺に加え、リア充」になるために愚かしい努力を続けていた。

それゆえ教養も高度な思考力も、学問の知識も、研究者としての能力も、さらにはソルジャー的な能力さえも身につかなかった。結局リア充化計画も失敗に終わったために心に大きな傷を負い、私は大学生活の後半戦を完全に思考停止した抜け殻のような状態で過ごした。

そして、優秀な学友たちが輝かしい晴れ舞台へ羽ばたいていくのを横目で見て羨みながら、就活に心血を注ぐ気力も体力もなく、また両親に勧められて受けた公務員試験も面接で全落ちし、ブラックな正社員型派遣の会社に就職した。


私は、ついに『封神演義』の太公望や母のようなヒーローになることはできなかった。結局のところ、私はひ弱で、ブスで、根暗で、くだらない妄想ばかりしている、ありきたりの馬鹿な女に過ぎないのだろう。この醜態を散々に嘲笑われ、誰にも好かれず、ボロ雑巾のようにこき使われ、やがて捨て去られるだけの。他人を助けるどころではない、自分自身さえ助けられていないではないか。

その原因は、それなりによくできた頭脳を持っていながら、現実逃避の愚かしい空想リア充化計画に夢中になり、きちんと努力をしなかったことにある。

ならば、最初から私はあの大学を選ぶべきではなかった。あの高校に進むべきではなかった。成績が上がっても調子に乗るべきではなかった。分を弁えてひなびた故郷に留まり、静かに暮らしているべきだった。そもそも、こんな苦しい思いをするなら、私はこの世に生まれてくるべきではなかった。


私はそんなふうに、いつにもまして自らを罵り続ける日々を送った。その地獄の底から這い上がる主なきっかけとなったのが、2015年に放映されたアニメ『おそ松さん』であった。




まとめ

藤崎竜先生の漫画『封神演義』は名作歴史漫画である。私は、歴史・神話それ自体や、それらをもとに物語を作り上げること、さらには「筋道立てて考える」ことなど、さまざまな楽しみをこの漫画から教わった

しかし一方で、『封神演義』をきっかけにして、空想好きでぼんやりとした性格だった私は一転、密かなコンプレックスを克服するために、太公望や母のような世の中の役に立つヒーローになることを決意した。その結果は惨憺たるものだった。私はただただ挫折と劣等感に塗れた日々を『おそ松さん』の登場まで過ごすことになった。


ポケモン』の記事でも同じようなことを書いたが、封神演義』は全く悪くないことは強調しておきたい。私が勝手に『封神演義』に感化されてコレジャナイ感満載の人生を送っただけで、『封神演義』は本来、読者の人生に悪影響を及ぼすような漫画ではない、むしろ逆だ。ぜひ読んだことのない全ての人におすすめしたい

今でも封神演義』は私の心の師で、紙の書籍(完全版)と電子書籍それぞれで全冊揃えて所持している。もちろん、2018年に放映された2回目のアニメには全力でブチ切れた。1回目のアニメは連載が終わっていなかったという事情も加味すれば個人的には許容範囲だ。ちなみに、私は藤崎竜先生の信奉者なので、彼を原作クラッシャーと呼ぶ人の気持ちは理解できるが絶対に友達にはなれない


さて、次は、『おそ松さん』に人生救われた話を書く予定である。興味があったら読んでいただけると嬉しい。