星を匿す雲

主にTVゲーム、漫画、小説、史跡巡りの感想を書いているブログです。基本的に【ネタバレあり】ですのでご注意ください。

【レビュー・感想】侍女の物語:戦い、従い、力尽きる女性たちの物語

皆様こんにちは。赤城です。

マーガレット・アトウッド生作、斎藤英治訳のディストピア小説である侍女の物語について紹介と感想を書きました。

前半はネタバレなしレビュー後半はネタバレしている感想になっております。ご注意ください。




ネタバレなしレビュー

はじめに、本書についてネタバレなしで紹介します。



あらすじ

これは、戦い、従い、力尽きる女性たちの物語。あるいは、今この瞬間にも私たちの世界のどこかに偏在する、疎外と絶望の物語である。


主人公の女性「わたし」は、キリスト教原理主義国たるギレアデ共和国で、権力者の男性の子供を産むための存在「侍女」として生きることを余儀なくされている。否、彼女だけではない。この国では全ての老若男女が、極端な聖書の解釈に基づいて各々の「役割」のみに邁進することに甘んじている。

「わたし」は、この国に対して強い違和感と憎しみを持っている。それは彼女が以前のこの国の姿を覚えているからである。彼女には、その時代に周りにいた大切な者たち――夫、娘、友人、母の存在を忘れることができず、その面影を常に追い求める。

その一方で「わたし」はひどく受動的だ。彼女は自分からは何もしない。数々の事件が彼女を掠め、ときには彼女の立ち位置を多少変化させて、通り過ぎてゆくのをじっと待っているだけである。そうしなければ「処分」されてしまうと恐れているからだ。しかし、ついに免れがたい転機が訪れたとき、彼女は……。



惹きつけられたポイント

私は正直、開始10ページくらいで、こんなもどかしい女の話を読んでいられるか、と悪態をついた。だが裏腹にページを繰る手は止まらなかった。なぜか?


ひとつには、彼女が閉じ込められているのはいったいどのような世界なのか、いたく興味をそそられたからだ。

いや、それは興味などというものではなかった。危機感だった。作者の空想に過ぎないはずの世界が、実は現実世界のそこここに少しずつ降り積もるようにして存在するのではないかという危機感。読み進めるうちにその危機感には確証が与えられた。この物語に登場する自覚のない加害者たちの言動は全て、現実に跋扈する不寛容で身勝手な思想たちの映し鏡だと思った。

それらの思想は私自身の中にも巣食っている。いくら根元からこそぎ落とそうとしても、それらは決して私から離れてはくれない。私はそれらを「誤ったもの」として押し込めておくことしかできない。それらが「正しいもの」であるという太鼓判を押され、表通りを公に闊歩するようになったら、それらは私の中で躍り上がり、たちまち私を加害者の一人に仕立て上げるだろう。

だから、私は最後まで読まざるをえなかった。ギレアデ共和国を、決して実現してはならない世界の一例としてこの胸に刻み、「誤ったもの」たちを封じ込めるために。


もうひとつ、私が本書を最後まで読み続けた理由は、本書の文体に非常な没入感があるからだ。

この没入感は、第一に、主人公である「わたし」ただ一人が静かに物思いに耽る描写が大半を占めていることによりもたらされる。彼女はとめどなく回想する。「侍女」になるための「学習」に励んでいた頃のこと。夫や娘と過ごした日々のこと。自由奔放な友人のこと。母との確執のこと。そのどれもが、「わたし」の苦痛に満ちた一挙手一投足の合間にするりと入り込み、読者に「わたし」のつれづれなる愛憎を、静かに追体験させていく。細かいが、回想部分で一切かぎかっこ「 」を使っていないのが没入感に拍車を掛けていると思う。かぎかっこを使われてしまうと、その言葉を発した人物がいちいち騒々しく浮かび上がってきて、回想の世界から引きずり出されてしまう気がするのである。

没入感をもたらしている第二の要素は、比喩表現のバランスの良さだ。詩心のない私のような読者にとって、比喩とは、基本的には、実態からかけ離れた無意味な言葉の羅列である。それらは空虚に私の目の上を滑っていき、私に少しの倦怠感と多大なる劣等感を与える。ところが、本書は違う。そもそも「わたし」の言葉は端的だ。あまり比喩を使わない。さらに、時折自然な調子で挟み込まれる比喩は現実的で分かりやすい。人によっては生々しすぎると感じるかもしれないが。いや、むしろ、その生々しさが本書の「味」だと思う。







読んだことのある方は、よろしければこの後のネタバレあり感想も覗いていってください!
































※この下からネタバレあり感想が始まります。未読の方はご注意ください。





























ネタバレあり感想

  • 「わたし」が苦手
    ぶっちゃけ、私は主人公=「わたし」が苦手だ。

    というのも、彼女は「芯が強く、情に脆く、受動的な女性」であり、それすなわち従来の古臭い価値観において好ましいとされてきた女性像そのまま(出典:私)だが、私(女性)はそのどれにも当てはめられたくないと考えているからだ。

    したがって、私はそのような典型的な女性が物語に登場しても、無意識に反発して感情移入ができない。その結果、本書も「侍女」である「わたし」と一心同体になるのではなく、そこから一歩引いた、彼女の夢見る「あなた」の視点から眺めていた。そして彼女の思考を追いかける脳の片隅でずっと、なぜ彼女ではなく友人のモイラを主人公に据えてくれなかったのだろう、と考えていた。

    しかし、終盤に差し掛かると、残念ながらこの物語は彼女でなければ語り得なかっただろうと悟った。なぜなら、もし「わたし」がジャニーンのように流されやすかったら、あるいはオブグレンのように冷静沈着だったら、あるいはモイラのように行動的だったら、「わたし」と彼女を見守る「あなた」たる私は恐らく、最後の場面とエピローグを迎えることができなかったからだ。彼女にはヒーローとしての素質はまるでないが、語り部としての素質は抜群だった。私はもどかしさと悔しさとほんの少しの安堵を胸に「わたし」がニックに救われるさまを眺めていた。

    果たしてモイラはあの施設から脱出できたのだろうか。「わたし」がわざわざモイラを助けに戻るなどということは、彼女の性格からしてまず望めない。私はモイラが自らの手で道を切り開き、あの愚かしい男どもの掃き溜めを威勢良く爆破でもして、ついでにニックもどうにか救って、「わたし」と合流する、という馬鹿みたいに単純な勧善懲悪の物語が欲しい。


  • 誰もが愛から疎外される地獄
    「●●が△△されるのは●●自身に非があるからだ」。いつでもどこでも手を変え品を変え頻繁に耳にする嫌な台詞だ。私自身も無意識に考えてしまっていることがある。

    最も身近なのは女性を標的にしたものではないだろうか。あんな格好をして歩いているのだから、痴漢されるのは当たり前。強姦されるのは当たり前。殺されるのは当たり前……。私がもし、スーツを着た男性に性的興奮を感じてつい手が伸びてしまうなどと言ったら、馬鹿げたご高説を振り回す彼らはいったいなんと答えるのだろうか(実際はそんなことはないというか、三次元の人間に対して全く性欲を感じないので安心してほしい)。

    犯罪や根拠のない誹謗中傷を撲滅するため、その「女性自身に非がある」という認識自体を変えていくのがこれからの社会のあるべき姿だと私は思う。ところが、まるで真逆なことを実行したのがギレアデ共和国の首脳部である。女性が襲われたり殺されたりするのは、その女性が無防備だから。ならば、女性に卑猥な格好をさせなければいい。女性を自由にさせなければいい。男からも女からも、恋や愛などという概念は消し去ってしまい、ただ生殖と生産のためだけに生き続けるよう変えてしまえばよいのだ。

    その結果、何が起こったかは本書で十分に語り尽くされている。人間は愛なしでは生きていけない。ギレアデ共和国の仕組み作りに携わった当の本人でさえ街外れの売春宿に救いを求めているのがなんとも醜く、憎らしく、いたたまれなかった。


  • 女性が男性の所有物になることへの恐怖
    私が一番ぞっとしたのは、中盤の回想で「わたし」の仕事が奪われ、身柄も財産も、全てが夫ルークの所有物になってしまった場面であった。歴史を学んでいれば、ぞっとしない女性はいないであろう。私たちが苦労して積み上げてきた(今でも完全には積み上げきれていない)「私を所有しているのは私自身である」という概念が、この物語では一瞬で灰燼に帰したのだから。

    さらに、それをさも仕方のないことのようにルークが受け入れているのにもぞっとした。もしかすると、彼はほんの一時だけ、しめたぞ、僕の出番だ、と思ったのではないだろうか、決して「わたし」の被害妄想などではなく。司令官も言っていたではないか、ギレアデ共和国を作り上げた理由の一つは、女性たちが自立したゆえに男性たちが生きる目的を見出せなくなっていたからだと。

    私は誰にも所有されないし、誰も所有しない、自立した人間である。その概念は、ほんの少しのボタンの掛け違いで容易に吹き消されてしまう儚いものだ。否、なべて人権意識や良心や倫理観といったものは、ふとしたきっかけで壊れてしまうのである、ギレアデ共和国を見れば分かるように。だからこそ大切に慎重に守っていかなければならないと思う。