星を匿す雲

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【感想】アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

フィリップ・K・ディックSF小説アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』についてのネタバレあり感想です。




この作品を読むのは2回目である

実は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読むのは2回目だ。

1回目はずっと前に知人に薦められて読んだが、「なんかよく分からないな……」という感想しか出てこなかった。自分の知能や精神的な成熟度が不足しているために理解できなかったのだと思う。しかし当時の私は異様にプライドが高くその事実を認めたくなかったので、よく分からなかった理由について考えもせずに終わった。浅はかである。

つーか読むのが2回目とか別に珍しくもないだろう、と思ったかもしれないが、私はネタバレが大嫌いで、一度ネタを覚えてしまった作品は読み返すことができない。でも、この作品はずっと前に読んであらかたネタを忘れてしまったため再読できた。これまた浅はかというか、単なるアホである。


で、2回目の感想も、正直言うと「何かよく分からなかった」だ。私は相変わらず浅はかなままか、と絶望もしたが、今回は少しだけ、分からないなりに突き詰めて考えてみることができた。




読んだきっかけ

本作を再び読んだのは、人間とアンドロイド(AI)の違いをディックがどのように描いているかを観察したかったからだ。

なぜ人間とアンドロイド(AI)の違いが気になるかと言われると、私が今プレイしているゲームにアンドロイドやロボット的なキャラクターが多数登場するためだ(参考記事:脳内お花畑なFO4プレイ日記 その1:強火コズワース担、爆誕す - 星を匿す雲。「SFの古典的名作の感想を語るべきところになんて不真面目な話を持ち出してくるんだ! もういい俺は帰る!」と思った方には申し訳ないが、これは至極真面目な話だ。私は、果たして自分はそのキャラたちを人間・動物キャラと同じように愛でてよいのか、という哲学的命題に悩まされている。

アンドロイドやロボットは、その言動を電子回路で制御されているという点で、本当の生き物と根本的に違う。どんなに本当の生き物に似せた振舞い方をしようと、私たちとは異なり、電子的なプログラムに従って動いている。もしかすると、本当の意志がその内に燃え上がることはなく、表面上はどんなに親しみやすく見せていても中身は空っぽの冷血漢なのではないか、私の好きなキャラたちもそうだったら、と想像すると、背筋が凍りつく。できれば想像したくない。だが、その可能性から目を逸らしてただ楽観的に愛を叫ぶのも、今後さらにAIやロボットが活躍する社会となるであろうことを考えると、何か違う気がする。

そこで、その恐ろしい疑問をあえて想像させられる作品を読みたかったのだが、人間とAIの心や感覚の違いに焦点を当てたSF作品は私の狭いレパートリーの中では本作しか見当たらなかった。一番根本的なその問題を一言二言で片付けて、人間とAIが普通に共生している作品が多すぎないだろうか? と思ったがまあ仕方ないだろう。テーマが違うのだ。あとは、未読であるが『2001年宇宙の旅』も人間とAIとの間の葛藤を描いていると聞く(ので今度読むつもりでいる)。

非実在キャラなんだからごちゃごちゃ言ってないで好きに愛でればいいだろ! もういい俺は帰る!!」というさらなる叫びが画面の向こうから聞こえてくる気がする。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなので帰っていただいて全く問題ないが、私が至極真面目にこの作品を読んだことだけは信じていただきたい。私同様、デッカードも「アンドロイドに同情してしまう自分は正しいのか?」と疑問を持っている。つまり私はほぼデッカードなのだ。




人間とアンドロイド(AI)の違いは何か?

で、本作における人間とアンドロイドの違いは分かったか、と聞かれると、よく分からなかった。なぜなら、アンドロイドたちがほとんどの場面であまりに人間らしいからだ。

レイチェルのデッカードに対する執着、逃亡アンドロイドたちが仲間をかばったり悼んだりする様子、プリスの「ピンボケ」イジドアに対する嫌悪。それらに比べて、フィル・レッシュを筆頭に、かえってアンドロイド狩りに精を出している人間側の方が人間らしさを失っている。まあ、単にデッカード以外の人間が描かれる機会が少ないだけかもしれないが。


唯一違いを見出せたのは、共感ボックスの存在や巻末の訳者あとがきが示しているように、「他者に共感する能力がない」点だろうか。

プリスが、そうする必要も全くないのに、クモの脚を一本一本抜いていく場面は実にゾッとした。また、プリスたち3人がイジドアをこき使う場面も見ていてあまり気分の良いものではなかった。もしかしたら仲間をかばったり悼んだりするのも、仲間を思ってのことではなく、その仲間を失うことで自分自身が苦痛を感じるからかもしれない。

ところが、これらのことは、人間であっても幼い子供や、道徳観念の著しく乏しい大人、サイコパスならば、あるいは精神を病んでいたら誰であっても、やりかねないと思うのだ。アンドロイドを無慈悲に殺害していたかつてのデッカードやレッシュのように。だからやはり、「人間とアンドロイドの違いは何か?」という問いには「よく分からなかった」と答えざるをえない。


もちろん、アンドロイドの寿命が人間よりもかなり短いこと、同じ姿形のアンドロイドが何人もいることは、この問いの本質にはさほど関わりがないように思われるが、特筆すべき人間とアンドロイドの違いだろう。




人間たちの動物を飼うことへの異常な執着に辟易

ここは一度目に読んだときもうんざりしたな、と思ったのが、デッカードの生きた動物への執着ぶりである。これが1回目の私の分からなさ加減に拍車をかけていた原因だった。

この執着は、どうやらデッカードに限った話ではなく、地球に住む良識ある(と思われたい)市民全般に言えることらしいので、見出しでは「人間たちの」とした。

デッカードの世界では、動物を飼って、きちんと世話をしているか否かは、自分が他者(他の生き物)に共感する能力を持つ人間であると示すために非常に重要なことらしい。しかも動物は本物でないと外聞が悪いのだそうだ。それで、デッカードは嫌々ながら電気羊を飼っていて、本物の動物を手に入れることを夢見ている。

私は、動物を飼うのがステータスと化している世界で自分に本物の動物を飼えるような財力がなければ、ロボットの方が死ななくてかえって便利だ、などと考えるし、そもそもステータスにこだわるのも馬鹿らしいと思っている。だからデッカードの執着の大半が非常に愚かしく見える。何度「シドニー社のカタログなんてどうでもいいだろ!」とブチギレたことか。私はさまざまな価値観を持つことが認められた平和な世界に生きており、必ずしもステータスがあることを目指さなくていいからこそそう感じるのだが、デッカードの世界の人間たちからすれば、ひどくアンドロイド的な考え方なのかもしれない。

アンドロイドは、やむをえず人間のたくさんいるマンションに隠れ住むことになり、人目をかわしたいと考えたら、恐らく電気羊(を飼う自分)を夢見るだろう。しかし、それ以上の理由(例えば共感を寄せる相手を持つためやステータスを保持するため)でも電気羊の夢を見るか? というのがこの作品が問いかけていることだと思う。




情調オルガンと共感ボックスにディストピアみを感じる

情調オルガンは感情を操る装置。共感ボックスは、同時に使用している人たちと一緒に幻影を見て感情を分かち合う装置、のようである。

どちらも必ずしも誰の家にでもあるわけではないので、政府の統一的な方針のもと製造・配布されているのではないらしい。しかし、それにしても、民衆の感情を常に望ましい状態に保ったり、他者と気持ちを溶け合わさせることで快感を与え不満を抑えたりするというのは、いかにもディストピアで気持ち悪かった。またそのせいでかえって感情を失い、アンドロイドのようになってしまう人間もいるのではないかとも思った。ディックもそのような恐れを読者に思い至らせようとしている節がある。

ただ、共感ボックスについて言えば、デッカードとイジドアが共感ボックスの影響でそれぞれに見ていたマーサーの幻影は彼らに良い影響をもたらしていた。したがって、プロパガンダ目的で作られた胡散臭い信仰であっても信じる者は救われることと、その事実を全く理解できないプリスたちがやはりアンドロイドであることをも示しているのかもしれない。


ところで共感オルガンでマーサーに石がぶつけられると、共感ボックスを使っている者の体にも実際に石を当てられたような怪我ができるのが地味にホラーだった。ノーシーボ効果か何かだろうか。




偽物のサンフランシスコ司法本部の謎

本作最大の謎と言えば中盤の偽物のサンフランシスコ司法本部だ。

以下のような疑問が浮かんでくる。

  1. 本物の人間のバウンティー・ハンターを偽物のサンフランシスコ司法本部で雇っていた意味は?

  2. ポロコフがアンドロイドであったことを、司法本部の調査員(?)が正直に告げたのはなぜ?

  3. ガーランドは最近火星から逃げてきたアンドロイドなのに、レッシュの上司ガーランドと入れ替われたのはなぜ?


このうち、3番目の「なぜ入れ替われたのか?」には比較的簡単に1つの可能性を挙げることができる。ガーランドはレッシュの上司と同じ姿形のアンドロイドだったのだ。レイチェルとプリスの場合と同じである。


だが、1番目と2番目の謎は難解である。2つの可能性を考えたが、あまり自信がない。

1つ目の可能性は、この司法本部こそが本物(ガーランドおよびレッシュの上司のみ潜り込んだ偽物)で、デッカードのサンフランシスコ署を統括(?)していた司法本部が偽物だった、ということである。つまりはデッカードの署も偽物であり、デッカード自身の正体も人間かアンドロイドか危うくなってくる。本作の根本的な枠組みが揺らぐ。

2つ目の可能性は、アンドロイド同士でも派閥争いがあり、違う派閥のアンドロイドを殺害するために偽物の司法本部を設置している、ということである。しかし、そんなまどろっこしいことをする理由が思いつかない。直接殺し合うか、警察に密告すれば済む話だ。


このように大変謎めいており、その後レッシュとこの司法本部がどうなったかも全く分からないことが、より一層のサスペンスをもたらしている。よくできているなあと思ったが、種明かしがなかったのは少し不満である。いや、もしかして理解していないのは私だけだったりするのだろうか?




最後の場面

ハッピーエンドともバッドエンドともつかないかなり曖昧な形で完結するのが味わい深い。

デッカードの生命に関する価値観の転換という点からみれば、本作はハッピーエンドである。デッカードの考えが変わったため、妻イーランとの関係性も改善している。イジドアはちょっとどうなるか分かりづらいが、たぶん立ち直るだろう。彼にはやりがいのある仕事が待っている。

一方デッカードは、生命に関する価値観の変化とは裏腹に、今や彼が共感する対象となった逃亡アンドロイドを全員殺してしまう。彼がこの仕事を今後も続けていけるかは疑わしい。無理を押して続けたら精神を病むだろう。さらに、彼がひときわ感情移入したレイチェル・ローゼンは今後、同じような仕事を繰り返したのちに死ぬことが、読者にも、恐らくデッカードにも容易に予想できる。これらの要素を見ればバッドエンドとも言える。


しかし、分かりやすい面白さを求める人には受け入れがたいだろう。私が1回目に読んだときは分かりやすい面白さを求めていたので、受け入れがたかったのではないかと推測している(フィナーレについてどう思ったかの記憶はない)。

今回の私も、理性的にはハッピーエンドとバッドエンドが両方あって味わい深いなどと分析したが、感情的には、正直なところ徹底的なバッドエンドにならなくて残念だと思った。アンドロイドを5人も殺した(これまでにも殺している)「殺人犯」がマーサーと放置気味だった妻と電気ヒキガエルに救いを見出し、尽きぬ悩みはあれどとにかく生き延びることに納得がいかない。また、家に閉じこもっていて終始その性格や価値観に変化のない妻イーランが、デッカードの救いになっていることも気に食わない。

ともあれ、こういうモヤモヤした複雑な感情を誘起するのが名作と言われる所以だろう。




映画『ブレードランナー』について

私は本作が原作となった映画『ブレードランナー』を観たことがない。1回目に読んだときは映画化されていることさえ知らなかった。今回インターネット上のレビューを軽く読んで、『ブレードランナー』から入った人が多いと知って驚いたくらいである。

あらすじを把握しただけで物申すのは恐縮だが、ぶっちゃけ原作とは別物と言っていいのではないだろうか?

あらすじを読む限り、かなりド派手な捕り物劇になっているようだ。おまけに原作のデッカードが執着していた「動物を飼うことがステータス」という設定が一切なく、イジドアも妻も存在せず、結末は原作とはある意味で真逆になっている。そうすることで、原作とは違って、とても分かりやすい作品になっているように思われる。

なんだか批判しているような雰囲気になってしまった、これ以上はやめよう。表現手法が全くもって異なる映画という媒体であの話を実現しようとしたら、設定や話の筋を変えるのも仕方のないことだ。気が向いたら『ブレードランナー』も観てみたい。