【感想】ウォールデン 森の生活
皆様こんにちは。赤城です。
ヘンリー・D・ソロー著、今泉吉春訳の『ウォールデン 森の生活』の感想を書きました。
はじめに
『ウォールデン』は、著者ソローがウォールデン池とその周辺の自然の様子を詳述するとともに、人間社会について考察したものです。どちらかというと自然に関する記述の方が分量が多く、野外活動を好まれる方にファンが多いと伺っています。私は本書の自然に関する記述も興味深く読み、もう少し自然に親しみたいと考えました。
しかし、本書を読んだきっかけが人間社会絡みであるのと、私自身が野外活動に疎いこともあり、これ以降では人間社会に関する考察に的を絞って感想を書いております。したがって、自然に関する記述についての感想はありません。ご承知おきください。
『ウォールデン 森の生活』を読んだきっかけ
『デジタル・ミニマリスト』および『一緒にいてもスマホ』にて、「私たちの孤独な時間、および、他者とのコミュニケーションが、インターネットやスマホの巧妙な設計により脅かされている」との主張と出会い、私は衝撃を受けました。というのも、私は現実世界よりもデジタル・テクノロジー(オンライン)に生き甲斐を見出していますが、同時に、昨今の一部の人々(自分も含めて)のオンライン偏重ぶりは常軌を逸しているとも感じていたからです。
これらの書籍(特に『デジタル・ミニマリスト』)では、「デジタル・テクノロジーに依存すると心身ともに満たされなくなるため、依存しないよう、自分にとって本当に大切なことのためだけに使おう」と提言されています。『デジタル・ミニマリスト』では、このような考え方を「デジタル・ミニマリズム」と呼んでいます。
デジタル・ミニマリズムの考え方には私も強く賛同しました。また、本当に大切なことを実現するための方策も立て、実行に移しつつあります。
しかしながら、デジタル・テクノロジーとそのコンテンツからの誘惑や挑発は完全には避けがたいです。また、果たしてデジタル・ミニマリズムが自分の価値観に見合うものであるかを見極めなければなりません(デジタル・マキシマリズム的な生き方にこそ本当の幸福を感じる可能性もあります)。さらに、テクノロジーの利用時間が減ったので、読書などの趣味にかなりの時間を割けるようになりました。
『デジタル・ミニマリスト』では、ソローを「ミニマリズム」主義者の一人として紹介しています。また、同書および『一緒にいてもスマホ』において、心身を満足させるために必要不可欠なのは、第一に内省を深めるための孤独な時間である、と論じられ、その重要性を示唆する文献としていずれの書籍にも登場しているのがソローの『ウォールデン 森の生活』です。
以上により、本書を読むことで、テクノロジーの誘惑や挑発に対しどのような姿勢で臨めばよいか、またデジタル・ミニマリズムが本当に自分の性質に見合うものであるかについて、若干の思索を巡らせたいと考えました。もちろん、純粋に読書を楽しみたいという意図が一番大きかったですが。
全体の感想:共感と悲哀と希望。私はソローのようにはまだなれない
本書の内容について非常にざっくりまとめると、「自分の心を大切にして生きるべし。そのためには富や名誉など不要。清貧を目指せ」ということになると思われます。私の半分くらいは深く共感しました。やはり私は「ミニマリスト」的な思想を持っているのだと自覚しました。
しかし、もう半分くらいは悲しくなりました。早い話が、「お前、そりゃただの綺麗事やで」と思ってしまったのです。
ソローが生きた時代はほぼ150年の彼方だから当時の考え方は現代には通じない、というわけではありません。むしろ、読み替えればそっくりそのまま現代に適用できます。これは驚くことではありません。ソクラテスや孔子の思想が現代人から見ても全く色褪せないのと同じです。
だからこそ、綺麗事と思ったのです。私たち現代人は、あるいは彼と同時代に生きた多くの人々は、名誉や欲望、安逸な暮らしを実現するためにあくせく立ち回ることを、彼ほどきっぱりと捨て去れる(た)でしょうか? いいえ、無理です。
それらのものは、少なくとも私にとっては、本当に大切なこと(自分の内面の世界を豊かにする)と無関係だとは分かっています。ところが、他者と交流を持った時点で、他者の、それらに重きを置く考え方や、それらを実際に所持し幸せに暮らしている(ように見える)事実に、激しく目移りしてしまうのです。
ソローは、他者とどんなに関わろうと目移りしません。なぜならば、本当に大切なことだけに殉じて生きようという意思がしっかりと定まっているし、またそのような意思を可能にする経験と教養を身につけているからです。私には、それらが欠けています。
どうしたら私はソローのようにまっすぐ生きて、幸せになることができるのか。答えは見つかっていません。私はまだ、他者の幸せ、他者の価値観に惑わされる地獄の中にいます。
もちろん、小説や絵を制作(笑)しているときや本を読んでいるときなどは、まさに自分の内面だけを豊かにすることだけに集中できているので本当に幸せです。でも、その小さな幸せな時間を作るためにお金を稼いでそれなりの実績を築くことを考え、実行に移し、そして失敗する、この過程で憂鬱になり、目移りします。本当はもっと違う幸せがあるんじゃないかと思わずにはいられません。
しかし、希望はあります。私は、自分が今のところは自分の内面を豊かにしたいと思っていることに気づきました。さらに、経験と教養が足りないせいで他者の価値観に目移りするのだとも気づきました。ならば、少しずつでいいから、経験と教養を身につけて、内面を満たすことを目指せばよいのです。
「希望はあります」とかクッサいことを書いたのは無論私が自分に言い聞かせるためですが、少し意地悪な見方をすると、ソロー自身も実は悟りきれていなくて、自分自身に言い聞かせたくて『ウォールデン』を書いた、という可能性もあります。書物はその著者の思考の全ては表現できません。所詮、選び抜かれた見栄えの良い言葉の羅列に過ぎないのです。そう考えると、ちょっと気が楽になります。
なお、他者の価値観や所持しているものへの「目移り」は、私の場合、ネットやSNSを使って交流していなくても起こるものであることが実証されています。しかし、ネットやSNSがその傾向に一層の拍車をかけることは間違いありません。したがって、他者がネットやSNSを駆使して富や名誉や愛を得ているところを見かけても、「羨ましいィィィィ!」とか叫んで自分もおこぼれにあずかろうとするのではなく、無視するのが一番だな、と思いました。
印象に残った部分の感想
続いて、『ウォールデン』の中で特に印象に残った部分の感想を書いていきます。ウォールデン池で生活していた頃のソローの年齢(上巻p.27注釈)
ウォールデン池で生活を始めた頃(1845年)、ソローは27歳だったそうです。その時点で『ウォールデン』のもととなるような思想は持っていたものと思います。え!? 私より若いじゃん!? それであんな達観したことを考えてたの!!? と、ものすごい劣等感を覚えました。まーこういうところなんですよ私の悪いところは。自分が他人よりも劣っているのが許せなくてひたすら自責しちゃうんですよね、改善するための努力もせずに。悪い癖です。
ちなみにソローが『ウォールデン』を出版したのは36歳(1854年)の頃で、亡くなったのは44歳(1862年)、死因は結核でした。
上巻p.45-46
ここからは本文を引用していきます。つまり私が生き方を提案したいのは、(中略)不平を言っているだけの人(中略)投げやりな人(中略)自分のために金銀の足枷を鋳造する人
み、耳が痛い! 前2つにすごく当てはまってる!!
「自分のために金銀の足枷を鋳造する人」とは、お金があるのに何に使ったらよいか分からないので、わざわざ不毛な使い道を見つけている人のことだと思われます。
上巻p. 52-53
なぜ人々は、たくさんある素晴らしい人生を無視して、ひとつの型にはまった人生を評価するのでしょうか?
ここでいう「ひとつの型にはまった人生」とは、コンコードの町の人たちが褒めそやす、「上手に物を売る人生」です。
いや~、これには深く頷いてしまいましたね。ソローの生きた頃より一層勢いを増している大量生産・大量消費社会に生きる身なので。
私の場合、「上手に物を売る人生」=「大金を稼ぐ人生」は嫌だけど、「安定した人生」は欲しい、というゲスな目論見で一時期公務員を目指していました。でもそのような打算的な志しかないから勉強はやる気が出ないし、筆記で受かっても面接で見透かされて必ず落とされていました。いや~懐かしいなあ。
「安定した人生」も、今やソローの言う「型にはまった人生」ですよね。正直まだ「安定した人生」は喉から手が出るほど欲しいですが、ソローが本書の最後の方で述べている(下巻p.409-412)ように、貧乏なら貧乏で良い経験が詰めるさ! と思って頑張りたいです。
ちなみに、今どきの公務員の仕事がラクじゃないことも必ずしも安定していないことも友人から詳しく聞いて痛切に理解しています。不快に思われましたら申し訳ありません。
あともうひとつ、私が憧れてしまうのは「名声を得る人生」ですね。世の中では「上手に物を売る人生」「安定した人生」と並んで持て囃されがち(弊社調べ)。
世の中で持て囃されているためにアホな私は憧れるのですが、冷静に考えると、家族や友人でもない赤の他人大勢から褒め称えられてもビミョーだと思うんですよ。気心の知れた人たちの間でささやかにお互いを認め合って暮らした方が明らかに平和で楽しい。でも、メディア(インターネットやSNSも含む)の発達により、赤の他人が赤の他人らしく見えなくなっているし、お互いを認め合うことのハードルも上がっている感じがします。
上巻p. 63
仕事は古い衣服で始めましょう。私たちは、衣服のために仕事をするのではなく、何かをしたいから、何かになりたいから仕事をするのです。
他者によく見られるため、あるいは他者からよく見られないと仕事が回らないために、着られなくなったわけでもないのに、次々と衣服を新調する人々に対する批判です。
私も彼とほぼ同じ考えを持っているので、ここは素直に共感しました。ほんとに服装で人を判断するのはどうかと思います。立派なスーツを着てたってぼろを着てたって、賢い人も馬鹿な人もいるでしょう。同じ馬鹿なら金と資源を無駄にしない馬鹿の方がマシではないですか。
無駄に激しい論調になったのは、私が根っからの裸族であり、服が嫌いなためです。あ、ドン引きしましたか? 外出するときは最低限の服は着ているので勘弁してください。それだって本当は嫌だけど公共の福祉のために我慢してるんです。
しかし、この「他者からよく見られないと仕事が回らない」ってのがかなり曲者で、綺麗な服装じゃないと後ろ指さされるとか、化粧してないと陰口叩かれるとか、そもそも歳食ってる(見た目が世間一般的な観点において劣化している)と採用されないとか、そういうことが(特に女性は)多いですよねぇ……。私は見た目なんてどうでもいいじゃんと常々思っているんですけれども。フケやシラミが飛んでこなくて変な匂いがしないならどうでもいいよマジで。
また、一定の水準以上の衣服を着ていることが求められるからこそ、服飾業界が成り立っているんですよね。それも悩ましいところです。もし世の中の人間がソローや私みたいなのばっかりになったら服飾業界の人たちが困ってしまう。そんなことはまずないでしょうけど。
もちろん、服を着たり、売ったり、デザインを考えたりするのが生きがいの人を否定するつもりはありません。
上巻p.85、上巻p.93
農民が家を手に入れたのではなく、家が農民を手に入れた
(上巻p.85)今や人は、自分が作った道具の道具になっています!
(上巻p.93)
農民は安寧な暮らしを実現するため、農場(家)を手に入れたい。それゆえあくせく働くが、手に入れたところで、またその維持費、そしてさらなる贅沢品を手に入れるためにあくせく働かなければならない。まるで家が農民を自分の世話をさせるために陥れたようだ、という意味だと思われます。
「農民」はただの例えで、他の職業の人たちのことも批判しています。
うん、耳が痛いね(笑)。先ほど述べた、私が憧れてやまない「安定した人生」がこれにぴったり当てはまるんじゃないでしょうか。「安定した人生」を送っている人全員がそうだというわけではなくて、私のような浅薄な考えを持った人間が「安定した人生」を得ると、こうなってしまうんじゃないかなと。
『サピエンス全史』にも、小麦は自分たちの種を広めるために人間を奴隷にしたのだ、みたいなことが書いてありました。あらゆる技術は、結局のところ、私たち人間が使いこなしているのか、使いこなされているのか、分かったものではないですね。
上巻p.137
人生の最良の時期をお金を稼ぐために費やし、稼いだお金を、人生の最も価値の少ない残りの時期の怪しい自由を楽しむために使う人
そのような人は考えを改めるべきである。あくせく働いて長生きをすると頭が固くなり、自由を楽しむ気が失せる。そんなことになったら元も子もない。この忠告を届けたい人の例として、ソローは鉄道敷設に関わっているアイルランド人の人夫たちを挙げます。
確かに言いたいことは分かりますし、年収ウン百万だなんだと焦らなくてもいいよね、と共感もします。でも、やむをえぬ事情でギリギリの生活を送っていて、必死で稼がざるをえない人たちのことを考えると、「それはあなたが頭が良くて、実家が太くて、独身だからこそ放言できることでは?」と反論したくなります。
例えば、当時の鉄道敷設に関わったアイルランド人たちは恐らくきちんとした教育を受けてなくて、実家もしっかりしてない上に、養うべき家族を持っていたものと推測します。それでもソローみたいな生活を送ろうと思えば送れますが、周囲の人たち(家族も含む)から無責任だとか非難されても押し通すだけの意志力がないと厳しかったでしょう。
ソローだって、もし教育を受けていなくて、実家が貧乏で、養うべき家族がいたりしたら、これだけ好き勝手に行動できたか分かったものではないですよ。「家族は自分がいなくても困窮しないで済む」、さらに「本当にいざというときは実家に助けを求めるか、町でもっと仕事を見つければよい」という考えが無意識下にあるからこそ「森の生活」に踏み切れたのではないかと邪推してしまいます。現に、森の生活をしている間の衣服の洗濯や修繕は実家で行っていたようですしね(上巻p.151参照)。
このような「お前、そりゃただの綺麗事やで」感が半端ない話はこの後もしばしば出てきて私を苛つかせました。特に、下巻のジョン・フィールドのくだり(p.87-104)はひどかったです。
上巻p.137
人は物を持ちすぎ、重すぎて、前に進めてもほんの一歩で精一杯
家や家財道具などの余計なもの(財産)を持ちすぎていると、それらを手放すことを惜しむあまり、身動きが取れなくなるという意味だと思われます。
これも耳が痛い。
私、なかなかモノを捨てられない人間なのです。それに加えて整理整頓が苦手なものですから、家全体がすごくカオスな状態になっています。これほどまでカオスな状態になるともう整理整頓をする気力も湧かず、ますますモノが増えて……といった具合に悪循環が生じています。だから、せめて本だけはKindleで買ったり図書館で借りたりしているのですが。
これでもいくらか前に不要な衣服(それこそ「他者によく見られるため」に買ってしまった衣服)は思いきって処分したので、そんな感じで残りのごちゃごちゃも片づけたいです。
上巻p.175
自分の大切なことを商業として扱ったら最後、呪われることを悟りました
確かにソローや他の先人の皆々様の言う通り、自分が本当に好きなことをガッポガッポお金を稼ぐための手段にする(あるいはそうしようと努める)と、なんだか自分が死んだような気分になります。
というのも、私が下手の横好きで書いている小説やブログにも、大衆ウケするためのテクニックや、アクセス数を増やすためのテクニックが存在します。私は一時期それらのテクニックを勉強していた時期がありました。小説に関しては今でもときどき勉強しています。
そのとき、大袈裟かもしれませんが、私は悪魔に魂を売り渡したような気分になったのです。私がやりたいのは、第一に自分自身を満足させること、第二に本当に必要としている誰かにこの物語やこの思いを届けることであって、無数の赤の他人に賞賛され、騒がしく消費されるためではないだろうと。
ソローも『ウォールデン』は別に儲からなくてもいいやという気分で書いたのでしょうね。見習いたいです。
でも、それらのテクニックを勉強し始めたのは、本当に必要としている誰かに届けるならポピュラーになるのが確実だろうと思ったためだったので、悩ましいところですけど。基礎がガッタガタだとそもそも誰にも読んでもらえないですし。小説がまさにそんな状態です。
上巻p.180
前に進めるのは、何事もひとりで始める人です。
他者と一緒に何かを始めようとすると歩調が合わず、始めるまでに時間を無駄に過ごしてしまう、と論じています。
うん、そ れ な 。私も大概一匹狼なので共感しました。
始めるまでだけではなく、始めた後も時間の使い方が合わなくて疲れます。お互いに全く悪気も悪感情もなくても。ぶっちゃけ、他者と長時間一緒に行動するのが好きな人っているのか? みたいなことさえ思っています。家族でも3時間くらい同じ空間にいると疲れてきます。
ですので、仕事も私生活も、どうしても必要な場面以外は、なるべく別行動を取るようにしています。
ただし、ソローのこの言は、実際に一緒に行動する(仕事や旅行など)だけではなく、もっと抽象的なことにも当てはまると思います。例えば、周りの誰も試していないことを試してみるとか。私は臆病者で、いつも誰かが既に通った安全な道を選んでいますので、本質的なところでは何事もひとりで始めることができません。そこは改善していかないといけないところかな、と思います。
上巻p.346
私は、ほとんどの時間をひとりで過ごすことが、元気な良き生き方であることを発見しました。
ここからp.350までは、まさに『デジタル・ミニマリスト』や『一緒にいてもスマホ』が論じていた、「常に誰かと『接続』し続けていることの息苦しさ」と本質的に全く同じことが語られていました。
もちろん、彼の時代にはまだスマホもネットも、電話さえないので、「接続」はしていません。しかしソローは、自分たちは人に会う時間が長すぎ、多すぎ
ると感じていたようです。またそのために話の内容が薄っぺらくなり、心を込めたコミュニケーション
がしづらくなっている、と述べています(以上、上巻p.348-349)。
まさに、インターネットとSNS漬けの一部の現代人(私)と同じです。誰かと実際に会う時間が、ネット上で不特定多数の誰かと会う時間に変わっただけですね。ただ、人数制限がないのと、スマホやSNSに依存性があるのとで、現代の方がよりキツいと言えます。
それと、例え最高にいい人であっても、一緒にいると間もなくうんざりして消耗する、とも述べています(上巻p.346)。私が前項に書いたのと同様の気疲れをソローも感じていたのですね。心の友よ!
上巻p.387-388
古くさい職業の道をたどるのが安全と、とうに決めている、若さを捨てたみな同じ若者――彼らは口を合わせたように、私のやり方では結局大したことはできないと言います。問題は多々あるでしょう! 年齢、性別に関係なく、古い考えの、意志薄弱で臆病な人は、病気、事故、死についてただ心配します。暮らしは危険でいっぱいでしょう――でも、心配すれば、危険は減りますか? ――彼らは、分別ある人なら、(中略)地位と住む場所を慎重に選ぶものだと考えます。(中略)そんな具合に、半ば死んだように生きれば、危険もいくらかは少ないかもしれません。でも、その程度の違いで、生きていれば、死ぬ恐れはあります。人は座っていても、走るのと同じ危険を背負っています。
ああっ! 心臓が! 心臓が痛い!
私もそういう若者だったんだ……公務員や大企業の社員になって安定していて安全な暮らしがしたいと思っていたんだ……。過去形なのは考えが変わったからではなく、年齢的に「若者」ではなくなったのと、公務員や大企業の社員への道がほぼ断たれたからです。今も、意志薄弱で臆病で、病気、事故、死についてただ心配して、あくせく汗水垂らして仕事をし、お金を貯めています。
でも、仕事やお金が特別好きなわけでもないのに、ただ将来が心配というだけの理由で、公務員や大企業の社員になりたいと思ったり、必要以上に熱心に仕事をしてお金を貯めたりするのは、果たして楽しい人生なのでしょうか? お金と地位さえあれば融通の利くことは確かに多いかもしれません。でも、果たしてその「融通の利くこと」は、自分が大切にしていることを過度に犠牲にしてまで欲しいものでしょうか?
文章の練習もしないで実質ニートしてる小説家志望や歌の練習もしないで女遊びばかりしてるミュージシャンやブラックなベンチャー企業の社長みたいな人はこの一節を言い訳に使いそう(偏見)なのでちょっとアレですが、それ以外の世の若者とかつて若者だった人たちには広く知ってほしいなあと思いました。
言われてみれば当たり前なんですけどね。私の親も、私が過剰に自分の将来を心配するので、うんざりして同じようなことを言っていました。ごめんな父ちゃん母ちゃん。
下巻p.127
ハープの音楽が世界中で聞こえています。けれど、ハープの音楽に本当に魅せられている人は少なく、みなが持つゆえに互いにハープを欲しがっています。
そうなんですよね、何事も、自分が本当に欲しいと思っているからではなくて、みんなが欲しいと思っているから欲しがっているだけ、かもしれないんです。それには、富、名誉、安定だけではなく、あのゲームが欲しいとか、漫画が読みたいとか、○○さんに認めてもらいたいとか、さらに言えば私が「自分にとって本当に大切なことだと今現在思っていること」も含まれているかもしれないと思います。
そこをきちんと見極めないと、時間もお金も無駄遣いしちゃいますよね……まあ、それでもいいさと吹っ切れれば問題ないのですが。なかなか吹っ切れないんだな~これが。だって時間もお金もないから。
下巻p.371-372
私たちは、もう春だというのに、なぜか冬にとどまってだらだら過ごしがちです。歓びに満ちた春の朝には、あらゆる人の罪が赦されるのです。
ソローは、過去に執着せずに未来を見据えて生きれば道は開ける、と述べています。意志薄弱で臆病な私でも、今からでも変われるのかもしれない、とちょっとだけ勇気が持てた一節です。
下巻p.403-404、413-414
私たちはなぜ、これほど捨て鉢に成功を急ぎ、事業に命を賭けるのでしょうか? あなたの歩調が仲間の歩調と合わないなら、それはあなたが、他の人とは違う心のドラムのリズムを聞いているからです。(中略)どれほどかすかであろうと、そのリズムと共に進みましょう。
(下巻p.403-404)私は、自分が進む方向に着実に向かう歓びを味わいたいのです。みな、一緒に同じ素敵な服を着てパレードし、大勢の注目を浴びるところに立つなど、まっぴらご免です。
(下巻p.413)私は、磁石のように私を引きつけるものに真正面から向き合い、そこにどんな意味があるかを問うて、静かに落ち着いていたいのです――私は大きな流れに乗って、自分を引きつける大切なものを軽く見たりはしません。
(下巻p.414)
これこそソローが本書を通して二番目くらいに言いたかったことであり、ネットやSNSに心を絡め取られがちな私が胸に刻むべきことだと思いました。
一言にまとめると、「多数派の人々の言うこと為すことに惑わされず、自分が本当に大切にしていることのために努力しよう」ですかね。他者から植え付けられた欲望を追いかけるだけの人生は虚しいです。自分自身が価値を見出していることであれば、他者に無視されてもけなされてもたじろがずに追求していけばいいんですよね。
さらに、具体的に本当に大切にするべき・価値を見出すべきこととは何か、についても、ソローは次項で引用した一節で示しています。
下巻p.390
人生の最高に高貴な獲物は自分自身であって、人生の目的はまさしくその獲物を撃つことだと、確信を持って言い切れます。
この前後で、ソローは私たちひとりひとりの心の中にある世界を、私たち自身が何よりも優先して探検するべき未知の領域である、と表現しています。つまり、「自分の内面についてよく知ることが人生の目的=一番大切なこと」と言っています。これがソローが一番言いたかったことだと私は考えています。
私たちは何かというと他者に心を奪われがちです。くだらない欲望を押し付けてくる厄介な他者はもちろん、家族や友人などの大切にしたい他者も含めて、です。前者はともかく、後者は大切にするべきではありますが、最終的には、人間は独りで生きて死にます。したがって、他者の存在や評価を過度に拠り所にせず、自分自身の心と向き合い理解を深めていくことが、満足な死を迎えるためには不可欠であると、私はこの一節を読んで思いました。
下巻p.425
私は、ジョンとジョナサン(訳注:ジョンはイギリス人、ジョナサンはアメリカ人を指す)の誰もが、この生命の希望の輝きを感知できるとは思いません。けれどもこの事実こそが、ただ決まった時間が経過するだけでは明けはしない、朝(あした)の特徴です。人には、あまりに明るすぎる光はまぶしくて見えず、闇と同じです。私が、そしてあなたが目覚める夜明けこそが、真の夜明けです。そして、夜明けの希望の輝きは、一日のほんの始まりにすぎません。夜明けの太陽こそ、長く豊かで、歓びに満ちたまぶしい一日を導く、希望の明けの明星と言わねばなりません。
本書の最後の最後の一節です。ポエムポエムしていて正直分かりづらいですが、有名な一節らしいのでコメントしておきます。
最初の一行に若干選民主義的な鼻持ちならなさを感じるものの、ソローが読者である私たちに時間と空間を超えて手を伸ばし、一緒に歩み出そうとしてくれているかのような錯覚に陥ります。実際、時間も空間も、この「いかにして自分の本当に大切にしていることと真剣に向き合うか」という悩みの前では大して意味を持たないのかもしれません。
あまりに明るすぎる光
が、世間一般が追い求める分かりやすくて薄っぺらな価値である一方、私が、そしてあなたが目覚める夜明け
は、自分の本当に大切にしていることと真剣に向き合う方法を見つけたときを指すのかな? と思います。
すなわち、世間一般が求めてやまないものは、所詮(私たちにとって)偽りに過ぎず、真の夜明けと、それに続く希望に満ちた人生は、私たち自身が大切にしているものを見つけ、真剣に向き合う方法を見つけたときにやってくる、と言いたいのではないでしょうか。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
冒頭にもリンクを貼りましたが、『デジタル・ミニマリスト』および『一緒にいてもスマホ』の幣ブログの感想は下記からご覧いただけます。